FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

自転車日和

そもそもはてなブログをはじめたころは、毎回のように自転車についての記事を書いていた。そのきっかけは初めてクロスバイクをゲットしたことだった。

ちょうどコロナで自転車が在庫切れ続出になる直前に購入した。

ママチャリやシティサイクル電動アシスト自転車は何台も乗ってきたのだが、クロスバイクは初めてである。

12月の寒くなるころに届いて、それから運動と重い気分を晴らすために、都内をあちこち散策するようになり、やがてサイクリングコースは一番走りやすい都立狭山公園までの往復になった。

暖かくなると発汗と疲労がすごいので夏はぜんぜんサイクリングしない。冬と春秋がちょうどいい。冬の防寒が自転車だとあまり必要ない。手袋だけはよいものが必要だ。

クロスバイクの選び方だが、平均点をとっていくと、3車種に絞られる。ジャイアントR3とブリジストンF24とジオスのクロモリフォークの3車種が、高額過ぎず、性能に不備がなく、ある程度しっかりしたモノかなという評が多いし、実際その通りなスペックや部品の使い方などになっている。

F24にしたのだが、ジオスのクロモリフォークもよかったかなという感じがする。(F24は中国生産でジオスは台湾製というところもある)ジャイアントだけはあまりに見かけることが多すぎてパスである。そこらじゅうジャイアントでうんざりだ。

1年ほど遠出に狭山公園を目指してよく出かけたが、最近幸いにも整体や整形外科のアドバイスを得て、脚の調子がよくなり、歩行するのがいくらか楽しくなってきて、運動の中心はサイクリングからウオーキングにシフトした。そこから考えると自転車日和は散歩日和とあまり変わらない。

しかし、よほど風が強い日は向かい風だとたいへんなのが自転車で、雨は論外。無風に近い晴れた日が自転車日和。

もうひとつは土日休日は歩行者がとにかく多くてなかなかスムーズに走ることが出来ない。走りやすさでは深夜から明け方が車も少ないので快適だが、トラブル対応の店が閉まっている。

まあそんな感じで一般人が気楽にサイクリングを楽しむには平日の昼間が一番いいかなと思うようになった。

都心の走りづらさは人口と車両の多さに比例した信号交差点密度の高さかなと思いつつ時々所用で自転車に乗るが、何度乗ってもママチャリに戻りたいとは思えない快適さである。

この間、久しぶりに注油したが、遠出しない街乗りならメンテナンスが空気入れ程度でほとんど何もしなくてよくなった。遠出というのはメンテにかなり気を遣うが、今はとても気楽な乗り方になったなと思った。

都心で公共交通機関を使うのに混雑がひどい場合は、自転車の効用は特に高いなと思う。曜日や時間帯や天気をみて、快適な自転車という選択肢があるのはとてもありがたい。路上放置で撤去されるのだけは要注意であるが、施錠をしっかりしてふつうに乗るぶんにはそこまでの過剰な心配はいらない。

とはいえ自転車の交通事故にはいつも気を付けなければならない。最低限のルールを守って、歩行者の安全と安心に配慮しながら、みんなが快適な交通環境を作っていかなければならない。最近、警察庁が自転車の違反に反則金制度を設けようと検討をしているらしいが、そもそも規制を強化するよりも自転車運転者に意識を高くもってもらうことが先決のはずであり、そんな罰金なんてことで事故を減らせるわけでもないと思う。

しがらみや経済だけでももう十分にせせこましい日常を強いられている日本人にこれ以上の規制をかけるのはどうなのかなと思う。

世情があまり芳しくないなかでの楽しい自転車日和に影を落とす警察庁だなあとイメージは最悪である。小池タヌキの規制路線とイメージがかぶる。

息苦しさだけが蔓延して、日本人の自由や明るい空気が侵蝕されていくことほど、文化芸術の振興を害するものはないかもしれない。自律的な自由という日本人の高度な美徳を推奨する方向に政治や教育がシフトしていくとみなさんが幸福を感じやすいだろうになと思うし、それこそが自転車文化のほんとうの意味なのではなかろうかと思う。まったく違反や危険を野放しにしろとまでは言えないが、今まで通り規制は最小限度にしておくのが好ましいだろう。

今の自転車日和がいつまで続くやら。

日米共同宣言のウラ

カゴメウイグルのトマトを使わないと発表したと報じられた。

かつては中国一辺倒だった世界は、コロナ騒ぎを転換点にして、急激に逆回転をはじめ、日本企業もその流れを意識せざるをえない状況である。

国際協調の観点から、中国の人道問題に対して、また台湾海峡の安全について、明確な態度を表明しなければならない時期にさしかかっている。

そんな中で日米首脳会談が行われ、共同宣言が出された。

これに対して中国は猛反発し、台湾は歓迎したが、やはりそうなのだなと思った。

中国は一国主義であり、他のいかなる国家主権や制度を認める気はない。あらゆる国に対して、中国に従えという態度を鮮明にしているとんでもない国である。

おしなべて共同宣言の内容は妥当であったと言えるだろう。

しかし、この記事は菅を悪意で高く評価するためのものではない。

そんなこと立憲民主から首相が出ても同じことを言うのである。

アメリカと菅の本音は、日本人奴隷化の流れを止めないぞという決意を表明したかったのである。

当然だが中国の意向に従うことはない。

しかしアメリカと菅経団連は日本人労働者を安く叩きたい、日本企業を安く叩きたいという悪しき構造改革を強力に推進したい。

ただその一心で中国包囲網を固めているという一面を忘れてはならない。

日本人は大変である。

中国が対日圧力をかけると表明し、日中友好条約の破棄を申し入れてきたのと同じ状況であり、アメリカも国家ぐるみで日本市場を狙ってうまく甘い汁を吸い上げ、しかもそれらに反発すると日本政府から干しあげられてまともに商売もできない。

平たく見ると三重苦であると言える。日米中のしがらみは強烈なのである。

せめて中国から引き揚げて先進国のしがらみの中で、みなが自由で豊かな国になっていくように努力できるような体制に変わってほしいと願うのは私だけではないだろう。

中国とは最小限度の交流交易にとどめ、中国共産党の動きによっては完全に撤退し、そして自由と公正のルールの国際社会を尊重しながら、国民生活を豊かにしていくことが肝要になってくる。

そこで共同宣言のウラで進行する日本植民地化、日本人奴隷化の現実を忘れてはならないのである。

たしかに中国よりアメリカがマシである。

しかしアメリカは日本を投資先と基地としてしか見ていない。

そして首相官邸では国民のことより株価だけを凝視して日々の公務とやらを遂行しているのである。

アメリカ一辺倒というのは非常に問題があり、ただの極端な資本主義の流れを推進するだけでは、国際競争力が棄損され続けている。GDPの推移を見ても実質賃金の推移を見ても、日本だけが悲惨な数字をあらわにしている。

政府は国民のためにはまったく思考しないし政策を立てないということをまず知って、これを改善するためには、日本人がきちんとした政治的見識を身につけなければならない。はやい話自分のためと日本のためが一致する部分についての学問的な基礎常識をわきまえなければならない。現政権にはそれができない。

日本人がバカで政治なんてわからない、宗教のこともうさんくさいからと野放し、貧乏人は死ねという未開の土人であることを自覚しなければならない。

なんだか耳触りのよいことを言っている政治家や宗教人たちになんとなく良いことを言っているのだから大丈夫だろうという生ぬるい甘っちょろい感覚でいる限り、日本人はただ苦しむだけである。日本人の幸福レベルは貧乏人に優越感を感じるか不幸な人に優越感を感じるか役職の優越感を感じるか、その程度の優越感を幸福だという程度なのである。人間としての幸福こそが自由と民主主義の土台であることをわからない日本人たちはあまりにも愚かである。

まともに子育てができる階層がどんどんせばめられていっている状況、まともに好きなものも食べられない状況、ケンタッキーがおなか一杯食べられたら幸せというただの貧乏で見栄っ張りの悲惨な日本人たちが、なぜ気が付かないのか、どう考えても日本人がバカだからとしか思えない。

菅が最低賃金を上げると発言して中小企業団体が炎上している。彼はほんとうは経済のことなんかわからない。政治的パフォーマンスで賃金を上げたと言えばよいとしか思っていない。

経済音痴の自民党議員が多すぎる。

そしてそんな政権を支持する馬鹿な日本人が多すぎる。

あまりにも哀れで悲惨な民族である。

どんなに努力しても正当に報われるのは、だいたい国民の1割どまりである。近年その一割すら危ない状況になった。

民主主義という、国民主権というあたりまえの幸せをまったく理解できていない。

ユーチューバーひろゆき程度の下らない優越感に浸るゆとりがあるのであれば、貧困層や困窮者たちに職業訓練を施し、人材育成経費を惜しまずに、みんなで豊かに幸せになっていくのが人間性というものである。

優越感に浸るバカな医者や弁護士がくさるほど溢れても、富裕層が二百万人いても、一億二千万人の日本人は豊かにならない。

その修羅のおごり程度で政治をやっても、憲法も宝の持ち腐れである。

現状では日本人には豚に真珠の日本国憲法ということである。

富裕層を含めてアジアの猿に三権分立とか言っても理解できない。

できていない。

政治の近代化を意識していた明治時代当時の元勲たちにはなにか人間としての誇りがあったように懐かしむ気持ちすら起きる昨今である。

今の政治家だけではない日本人には人間としての誇りがずいぶんと浅はかになったなあと見える。

平たく言えば99%の日本人はバカになった。完全なるバナナ共和国そのものになったのである。

麻生さんわかってるくせに 飲めるかどうかの問題か?

麻生さんが言う。トリチウムを含む汚染水を海洋放出しても害はありません。
誰が考えてもほぼ無害な汚染水だが、目くじらを立てる人たちがいるのは確かである。
普段の行いが悪いと、こんなどうでもよいことでも反対される。
緊縮財政で困窮者たちを犬死にさせてきたことの罪があるものだから、麻生さんの言うことは聞いてはいけないということなのだ。
アメリカ政府が海洋放出を評価していることも火に油を注ぐことになっている。
日本はアメリカの属国ではないとか言って。
要するに日本政府、麻生大臣には信用がないのである。
与党を指示しているのは国民のわずか3割どまり。
たまたま上に媚びへつらって仕事がつながっている、うまく行っている神道創価の一部のf:id:FujiYama:20210418005804j:plain人たちだけが支持している。
しかし、大半の日本人は政府を積極的に信用できないのだから、マスコミやSNSでは海洋放出けしからんとやるのである。
はたして選挙権のある日本人の3割しか支持しない政権は民主的に選ばれた国民の代表と言えるのだろうか?
はなはだ疑問である。
数字のマジックに流されてはいけない。
与党なんて3割勢力であって、過半数でも圧倒的多数でもなんでもない。
トリチウム問題よりも、民主的政治のために野党勢力の結集が今の日本には求められている。中国の経済力やアメリカの軍事力で威張り散らすだけの虎の威を借る狐の独裁政治は支持できない。本来的な国民のための政治をやってほしいものだ。

こまった日本人は人に迷惑をかけずまじめに死ね 日本政治と科学者藤井聡、三橋貴明の欺瞞を破る

東洋に日本人という民族がいて、二十年前くらいまえまでは経済的に繁栄して日本国も国民も豊かな国だった。

しかし風向きが変わった二十年前くらいになにがあったのかと言えば、自公政権が誕生して財務省の言いなりになる官邸に様変わりしたということである。

その後選挙制度が変わって自公政権独裁政権になった。

本来政権は政府案の間違いを政権が修正したり政府に民意を提案したりするのが役目であり、健全なる三権分立であるにもかかわらず、完全なる独裁政権に移行してきたのである。

民主主義の鉄則である少数意見の尊重がまったくなされなくなった。

マスコミは政権にご機嫌取りをして、民意を無視するようになった。

いつしか政府のご機嫌取りが日本人の真面目であるという風潮が蔓延するようになった。きちんとした科学的な意見は闇に葬られるようになり、国民生活が窮乏の一途をたどるようになる。

いつしか生活困窮者が増加し、障害者が減ったわけでもなく、年金はどんどん目減りしていく事態となった。

こうなっても政府の独裁がメッセージとして送る内容は変わらない。

自助共助で切り抜けよ。

社会保障予算は削りたいという日本人を削減する財務省の意向も変わらない。

どこから亡国の発想が生まれるのかと言えば、日本国政府が国教として採用している伊勢神宮の教え、神道の教えからである。

日本人は面白いことに、こまった時には死ねという教育をしている。

仕事ができない人間は生きている価値がないとか、社会保障を受けることは他人に迷惑をかけるから受けないようにとか、病院を受診することは無駄遣いにつながるから受診するなとか、ようするにこまったら手当を受けるのではなく自殺しなさいという教育が主流であり、そのある意味潔い考え方は神道の教えである。直接自害しろとは戦時中でないから滅多に言わないだけであり、婉曲な言い回しで自殺してくださいと困窮者に伝えたりそのように伝わることは日常茶飯事である。

神社は教会と違って不幸ごとを扱わず、寺まかせにすることが特徴である。

つまり楽に儲かることだけやって、厄介ごとには一切関わりたくない。

人の不幸ごと、失業とか倒産とか路上生活とか自殺とか変死というような難しい問題は汚れ仕事として手を出そうとはしないのである。

そしてなんと言うかと言えば、お幸せにと言う。

仕事がない、障害がある、会社をたたんだ、生き別れた、自殺変死した、路上生活者などに対して、お幸せにとはどういう意味であろうか?総理大臣が困ったら生活保護があるじゃないかと言っていたが、あれがいわゆるお幸せにである。

はたして日本人で生活保護が幸せだという人が一人でもいるのであろうか?

政治の世界では、すべて国民はという定義と法の下の平等という概念から、差別的取扱いは許されないことになっているが、実際はまったく差別がまかり通っている。

国教として神社だから、困窮者は相手にしたくないという精神が役所の隅々まで行き渡っており、でたらめを言ってあしらう専門職員しか配属しないようになっている。

基本的に困窮者を追い払うのが神社であり、いわゆる鬼は外福は内というやつで、困窮者は役所に来所しないでほしいという精神が徹頭徹尾見て取れる。

困窮者が神社を拝んでいるのであればと役所は遠慮して自殺してくれるという期待のもとに、お祓い担当職員が配置されるのが常識となっている。

自殺には自分の体力や気力をふくめた自腹を切るという損失行為もあり、正当に受けられる手当を受けられずに健康を害することを含む。あきらかに寿命が縮むからである。

今の日本人でそこまでまじめに自殺してくれる人もまだ相当数いて役所としては何かのはずみで死んでくれたらありがたいということである。

もし政府として本心で生活保護を受給してほしいと願っているのであれば、役所内に神棚を祀ったり、地方行政庁で水際防止作戦をやったりすることに対して、違憲違法判断と罰則が明確になるはずである。しかし政府の本心、本音としては伊勢神宮の教えのほうを尊重して国民の生命や財産など知ったことではないから、そんな改善に結びつくようなことは一切やらない。やろうともしない。

結論として、日本人は神社神道を支持、信仰する限りにおいて、こまったら自殺するのがまじめであり、美徳であり、日本人の鏡であるということになる。

釈迦や日蓮、キリストらの聖人たちは、深い悲しみにくれる困窮者たちに慈悲深く、愛情豊かに接したことが広く知られている。マザーテレサが尊敬されるのもよくわかる。ナイチンゲールも立派だ。ナチスから障害者を匿ったドイツベテルの教会も聖なる教えを守った。

そんな多種多様な信仰の教えによって、正当に生活保護を受給する人たちに対しても、日本の行政庁は見境なくお祓いを繰り返している。水際防止作戦である。

また、それ以前に親戚内からこまったやつは居宅に寄り付かないでほしいとお祓いをされた人も多い。困ってもいないのに金すら貸してやらないというケースも多い。

それら神道の教えによる自殺のすすめという一種異常な方策をたくさん確認しているNPOはマニュアルを作成している。この記事も大いにそのたぐいの書籍を参考にしている。

どんなに高額の納税をしても、なけなしのお金から高い消費税を支払っても、なにかあったらどこかで死んでくださいというのが日本政治と学者たちである。

首相が生活保護があるなんて言ったくらいでなにか前進したなんていう人もいるが、まったくそんな悪質な発言を信用する気にはならない。

日本人、神道には理性がない。つまり合理的判断ができない。

ただ厄介者が寄り付かないようにという前近代的飢餓時代の文化風習だけを頑なに守り続けて、国民や領土主権を守らない。

政府伊勢神宮のメッセージとしてこまった日本人は神社の教えに従って死ねということである。

困った時に死にたくなかったら、他人が困った時に助けてあげたかったら、日本人は神道以外の信仰を持つ必要性がある。

日本人や行政のまじめなんてものはそんなものである。

信仰のレベルがまったく違うので、それが政治のレベルになっているだけである。

経済統計を眺めてみても、日本人がまっとうに働けるようにみんなで幸福を追求したかったら、神社神道だけは選んではならず、自公政権だけは絶対にありえないということだ。

いや本人の選択による自殺や早死にと政府伊勢神宮はまったくなんの関係もないと言うのだからあきれた無責任さである。報道の福岡5歳児虐待死の件についても創価学会本部は個人のことはほぼ把握していないと回答している。

政府・伊勢神宮創価学会はなにがあろうと絶対に信用してはならない。

日中友好?公明党は公に釈明しろ。

最近よくニュースでミャンマー国軍の市民虐殺事件が報道されており、国際社会の注目を集めている。

国軍はアメリカやイギリスが市民に対する暴虐はやめろと言ってもまったく聞こうとしない。いったいなぜそんな無茶ができるのかといえば、ミャンマー国軍のバックには中国共産党がついているのだそうだ。まるで北朝鮮がもうひとつできたような話である。

これにはもはやウンザリである。

とうとうアメリカ国内では、アジア太平洋地域に空母機動部隊をもうひとつ新設するように検討が始まったそうである。

中国を中心とした暴虐の軍政の国々が、アジアの政情不安をつくり、市民社会に対してめちゃくちゃな虐殺までやる始末である。

ひとつの機動部隊だけでは到底追いつかない。

香港問題やウイグルの人権問題は、決して他人事ではなく、同じ地球市民としてとてもおぞましい状況であるが、それがたんなる中国国内の問題では済まないところが重要だ。

コロナ問題がなにやらうやむやにされそうな情勢である。中国の研究所に対する査察が徹底的なものにはならなかった。

台湾海峡の軍事的緊張、南シナ海での中国軍の拠点づくり、尖閣諸島問題、北朝鮮の核開発、ミャンマーの軍政による虐殺、中国国内の人道問題、香港の市民活動に対する不当な制限と、ここまでくるともはやアジアはデタラメである。

その諸悪の根源が中国共産党であると断定できる。ずいぶん昔の天安門事件というのがわかりやすい学生デモに対する軍事力による弾圧だったが、最近思い出した。最近は天安門の市民弾圧が各地で起こっているのだ。

日本のメディアは中国に批判的なことは報道しない。むしろ中国に忖度していることばかりである。

日中友好条約は一刻もはやく破棄すべきである。

もう去年になるが、通商条約に変更するようにブログ記事を書いたが、ミャンマーの一件で今はなお一層その意見は明確になった。

自由と民主主義という国際社会の鉄則を中国に思い知らせてやらなければ、これ以上独裁軍事国家ばかりが増えると、まさにホロコースト、大量虐殺の繰り返しと隠蔽という闇の人類史が記され続けることになる。

やはりバイデン大統領でなければここまで明確な態度はとれない。

大統領は軍の派遣配備だけでなく最近台湾に外交使節を正式に派遣した。

気を付けねばならないことは、ほんとうは日本という国が独裁国家になりつつあることだ。

日米同盟を堅持することと別に、日本も民主化していかなければならない。

日中友好なんて寝とぼけたことを言っている限り、日本の民主化は絶対に不可能である。強権による国民抑圧という軍事政権並みの独裁国家になっている日本に対しての改善方法を考えなければならない。国民がアメリカのカモにされないようにしつつ日米同盟を堅持する必要がある。日米同盟イコール自由と民主主義になっていないことが要点であろう。

そのガンこそ公明党日中友好なのである。

アメリカは日本の主権を侵害しているわけではないが、中国とのパイプによって日本人のための政治は完全に損なわれている。昔は謙虚さがあった自民党が近年おかしくなった。安保で日本上空の制空権に制限があることは別段日本人の生活に悪影響はない。地位協定の改善は政治が取組むべき問題である。地位協定に問題があるからといって決して中国共産党の傘下になってはならない。日本人もウイグル人のように人体実験に使われる日が来るのはそう遠い未来ではないし、すでに日本人労働者が中国共産党系企業に安く買いたたかれているという事象が多発しているのだ。

自公政権は中国系の政権であるがゆえに国民の基本的人権や主権が守られなくなり、違憲状態が多発したままになっている。日米同盟にケチをつける前に憲法をきちんと守らなければならない。

心あるスポーツ選手には北京オリンピックはぜひボイコットしてほしい。心ある日本人には野党に投票してほしい。

もはや今の政権政党選挙制度を含めた改善を期待することはありえない。

日中友好だけは絶対にありえない。

日本のコロナ対策はアホ

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大石寺から望む富士山


新型コロナウイルスによる被害が世界中で認められ、大変な死亡率をマークした欧米その他の国国では、それなりのロックダウン等の必要性が認められ、全員が納得しないまでも、強力な対策がたてられた。

しかし、日本ではまず死亡率が大したことのない数であり、死亡者数も丸一年を超えているにもかかわらず、まだ一万人には遠く及ばない。今日14日時点で9524人となっている。この数字をどう見るかと言えば、コロナが感染しはじめたのが昨年の1月頃からであるから、一年で9000人未満と見て良い。

政府厚労省の分類が非常に危険な分類の感染症の扱いになっているが、この数字からは分類を変更するのが合理的判断である。変更は医療関係の対応を改善する。

病院のコロナ対応ベッドを増やす方法はそれがもっとも効果的であると藤井聡京大教授は主張しているが、その通りである。

そして、なぜコロナ対策がアホかと言えば、まず第一に自粛や蔓延防止法などの感染予防に効果がないこと。第二に死者の天秤ができないことである。

第一に感染の広がり方や収束の仕方の第一法則が気温の変化によっているだけで、自粛によっては変化していない。京大の学生の研究や東大出の武田氏などがデータに基づいて主張している。

第二にコロナで死亡する人の数と自粛や政策によって死亡する人の数の変化がなにによっているのか。これはまことに政府として日本国として愚かしさに満ちている。

コロナで亡くなる人の数は第一の理由から自粛の有無によらず不変であると推定できる。自粛しなくても一年あたり9000人未満の数が死亡するのは変わりないにも関わらず、経済活動をすべて停止させたことによる死亡者の増加がいかほどのものかということである。令和2年一年間で21082人の自殺者がいる。この数は、まだ影響が少ない上半期の数が少なめに出ており、影響がでてきた下半期から令和3年の上半期の一年をとって増加数を見なければならないだろう。もうひとつは変死者数の中に自殺である可能性があるものが相当数含まれているため、この数より多いと考えなければならない。

令和2年通年では自殺者数の増加人数はわずか912人であるが、令和2年下半期から令和3年上半期の自殺者数増加数は未定であり、変死者数の疑わしいものを加えてもおそらく1万人の増加まではいかないであろう。

しかし2000人程度は増加しているものと見なければならない。

国の政策の間違いで無駄に2000人が命を絶ったのだと思うと非常につらく思う。

ここで東洋の英知、仏教による見方を参考までに述べておきたい。

日蓮大聖人が22歳の時、時は寛元元年の御述作になる戒法門という文献がある。ここに人に生まれて、また仏教の守るべき戒について詳細に述べられているが、中でも五戒を大事にしなさいとある。その第一が不殺生戒である。道理もないのに生命を殺すなという。

そして気になる一文があった。

一を殺して万を生かすべきをば許すべし。

これは非常に見逃せない、私の目は釘付けになった。

この教えによれば、万を生かすのは至上命題であり、まさに9000人が死んでもその一万倍にあたる9000万人は生かせということである。

日本のコロナの死亡率は1億2500万人を分母にすると1万分の一以下である。

しかもこれは感染症による道理による死亡であり、気温による感染である。

しなくてもよい自粛を強要する蔓延防止法なんてものは、日本国民を道理もなく絞め殺す悪法である。

自殺だけが被害ではない。あまりにも被害が多すぎて数値化するのがとても難しい。

結論として、気温の変化で動く感染者数に一喜一憂することも感染者数を減らそうとすることも完全に無駄である。まさに徒労というやつ。

政府の無為無策こそが日本人の日々の生活のためにもっともよい政策である。

なにがなんでも自粛させるならば、きちんと毎月の手当補償をしなければ人権侵害であり憲法違反である。

道理もなくフリーズとかホールドアップとか言って国民をいびりあげ縛り上げて、困ったら生活保護をどうぞなんて心にもないことを言う菅はかんぜんなる阿呆そのものである。菅を支持する40パーセントの阿呆がまだ気が付かないことがとても面白い。支持率が回復して日本人のあほさ加減がよくわかる。

やはり伊勢神宮神道などでは世界とはまともに戦えない。

途上国日本が近代化するのは無理である。

極東の阿呆どもが学識ぶって対策をしましたと主張しているのをまともに相手にする気がしない。

本心ではコロナは風邪レベルであると知っているからステーキ会食や宴会をやる政府筋というのが存在しており、自粛なんて必要ないという合理的判断をあえて闇に葬ってまで政治ショーをやりたがっているだけなのである。

自殺に追い込まれた方方のご冥福を心よりお祈りしたい。

またその他の甚大なる被害を受けた方方に対しても御気の毒に思うと同時にそういう政治風土を作っている日本人に対しては自業自得であると記しておきたい。

貧困対策と宗教(いまむかし)

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沈みゆく太陽


ここ数年とくに貧困問題が深刻になっている。

いわゆる平民がどんどん削られていって、奴隷階級が広がっている。

富裕層は富を増大させ続けていて我関せずの事が多い。

高度経済成長期にはみんなが平民だったから、貧困層に対して別に目くじらを立てる人も少なかったと思う。生活保護受給者も日雇い労働者階級もみんな同じように公立小学校で学んだものである。

近年は子供食堂がおおはやり。学校給食は質が低下している。

私の母親が中高大とキリスト教の学校に行き、キリスト教徒志願者だったので、ユニセフやなんかに寄付する姿を見ていたし、生活保護受給世帯の同級生を家に招いたり、日雇い労働者家庭から借金の相談を受けたり、なかなかに愛のある幼少期を過ごしたことを憶えている。家に神父さんが来たこともあるし、私の幼稚園はカトリックである。

そんなことから貧困問題について常日頃から関心があり、できればNPOの活動費を寄付したいなと思うような人間である。

東京や大阪はNPOが積極的に浮浪者や野宿者に対して支援活動を行っている。

そしてそのほとんどがキリスト教系の人たちであるように見受けられる。共産党系の人たちもいるけれど、本来は無党派でやるべき活動なので、あまり属性にこだわりすぎるのもよくないが、比較的キリスト教系の方方が多いようだ。

キリスト教には愛の精神、奉仕の精神など崇高な心を具体化した活動があるので、立派なことだなあと思う。

しかしその反面教会から弱者を追い払うというむごい仕打ちをする人たちもいる。勤労を尊ぶ余り障害者を目の敵にすることもよくある。安定した仕事の信者ばかりではないので、寛容の精神もまた身に着けていかねばならないだろう。

そのあたりを正直に説法で告白している神父さんもおられる。人間として、信仰者としての葛藤がありながら、やはり困窮者、みすぼらしい姿の人、障害者に対して、きちんとした応対ができる神父さんもおられるのである。できればみんながお金持ちでよい仕事の人たちばかりならそれはそれで喜ばしいことだが、そうでない方方に対しても愛を注ぐ神父であって、また教会であらねばならないと彼は言う。

日本社会ではまだまだキリスト教は異端である。それほどのステイタスはない。

それでは日本の寺院はどうなっているのだろう?

ステイタスというものが邪魔をして、やはり貧乏人を目の敵にしがちである。そしてキリスト教の慈善活動があるのに対して、仏教の慈善活動はすこぶる下火になっている。

炊き出し活動はそもそも仏教寺院の専売特許だったのではなかろうか?明治時代になり、風向きが変わったのは妻帯が許され、寺院経営がシビアになってからのことであろう。しかもアジアの伝統的な偏見として乞食という階級に対しては差別感が根強い。たとえば生活保護受給に対してかなり批判をする風習がいまだに残っている。慈善活動とともにキリスト教とは好対照になっているのだ。

面白いのは生活保護に理解があるキリスト教系の考え方では努力や工夫といったものは要求しない。愛をもって養生させることを優先する。困窮状態の方というのは、実際もう努力も工夫もするような気力すら残っていないことが多い。そんな状態の人たちに対して愛、慈善活動、生活保護支給は非常に効果的なことが多い。

ではいつまでも愛に甘えていてよいのかと言えば、個人差はあるが、いくらか少しずつでもなにかやってみようとなるのが通常の人間である。

生活保護を否定して努力や工夫という信仰を強要する寺院というのは、もう檀信徒がいない。お布施だけは受け取るが、なにかあっても助けてくれない寺院というのは、別にありがたくないわけである。困窮者は生活保護を活用して努力や工夫を重ねるという抱き合わせが実際的であるが、早逝してくれたらよいという。

寺院とは言え、これは神社神道の考え方によっている。したがって行政は生活保護の申請をさせないように徹底した対応マニュアルを実施している。厚労省がいくら通達を出したって地方の受付が受け付けない問題がたびたび報道され、しかも改善される兆しはまったくない。

先の大戦大日本帝国は完全に敗北した。戦時中の貧困状態、困窮状態に対して、日本軍は自害を強要し、捕虜を強制労働させ、植民地で略奪を繰り返したため、戦闘態勢がまったくとれなかった。戦争とは名ばかりで、実に狂気の庶民いじめそのものであった。天照大神もさぞかし迷惑しているであろう。

今の日本政府と地方自治体の施策を見ていると、どうもあまり変りばえしない。

連合軍はきちんと食事をして、ストラディバリのコンサートを戦地で聴いて、整った体勢で元気いっぱい戦闘に臨んでいた。餓死しそうになって捕虜になった祖父の話によれば、実にアメリカ軍の収容所は好待遇であり、終戦後は収容所内での雑務に対して十分な賃金が支払われた。

日本軍の処遇とはあまりに天地のひらきが大きく、その驚きを祖父は幼い私にたびたび語ってくれたものだ。

無反省な日本人たちは、いまだに貧困層に対して、むげに冷たくあしらうことを繰り返している。まともに食べられないのは、数千万人規模になりつつある。

戦争をするのには食料と武器弾薬、息抜きと訓練が必要である。

今の日本の国際競争力はずいぶんと低い。破滅的である。

貧困層を増やしていってなんら問題意識を感じていないし、生活保護は悪であるという思想宗教観も30パーセント以上の日本人には残っている。大学、専門学校だけではなく企業内訓練まで費用を削減しているため、これからますます日本企業のサービスの質は低下する。企業内訓練費をケチって高卒大卒専門職にバリバリ働けという日本企業、政府というのは、少しおつむが弱いのであろう。

自殺者や変死者が増加したのは、戦時中に玉砕した人達のことを思い起こさせる。手りゅう弾や拳銃がなくても日本人の多くは自殺することがやはり美徳であると考えるのである。

日本政府だけでなく日本人がそのような学ばない民族である以上、貧困対策は科学者集団共産党と異端のキリスト教系だけの専売特許のような状況が続くと思われる。

神社神道を拝むということは今も昔も自殺や虐殺を美化推奨することに他ならない。

日本国民として日本のため同じ日本人のためには神社は拝まないほうがよい。日蓮正宗では拝んではならないと明言する。

それを日本政府は無反省に神棚を公共の役所内に祀っている。

最近、貧乏人は死ねという記事を書いたが、内容が部分重複している。

ご容赦願いたい。

此の国に生まれてきてよかったのかどうか?今のままでよいのかどうか?

みなさんも少し冷静に考えていただければ幸甚である。