ここ数年とくに貧困問題が深刻になっている。
いわゆる平民がどんどん削られていって、奴隷階級が広がっている。
富裕層は富を増大させ続けていて我関せずの事が多い。
高度経済成長期にはみんなが平民だったから、貧困層に対して別に目くじらを立てる人も少なかったと思う。生活保護受給者も日雇い労働者階級もみんな同じように公立小学校で学んだものである。
近年は子供食堂がおおはやり。学校給食は質が低下している。
私の母親が中高大とキリスト教の学校に行き、キリスト教徒志願者だったので、ユニセフやなんかに寄付する姿を見ていたし、生活保護受給世帯の同級生を家に招いたり、日雇い労働者家庭から借金の相談を受けたり、なかなかに愛のある幼少期を過ごしたことを憶えている。家に神父さんが来たこともあるし、私の幼稚園はカトリックである。
そんなことから貧困問題について常日頃から関心があり、できればNPOの活動費を寄付したいなと思うような人間である。
東京や大阪はNPOが積極的に浮浪者や野宿者に対して支援活動を行っている。
そしてそのほとんどがキリスト教系の人たちであるように見受けられる。共産党系の人たちもいるけれど、本来は無党派でやるべき活動なので、あまり属性にこだわりすぎるのもよくないが、比較的キリスト教系の方方が多いようだ。
キリスト教には愛の精神、奉仕の精神など崇高な心を具体化した活動があるので、立派なことだなあと思う。
しかしその反面教会から弱者を追い払うというむごい仕打ちをする人たちもいる。勤労を尊ぶ余り障害者を目の敵にすることもよくある。安定した仕事の信者ばかりではないので、寛容の精神もまた身に着けていかねばならないだろう。
そのあたりを正直に説法で告白している神父さんもおられる。人間として、信仰者としての葛藤がありながら、やはり困窮者、みすぼらしい姿の人、障害者に対して、きちんとした応対ができる神父さんもおられるのである。できればみんながお金持ちでよい仕事の人たちばかりならそれはそれで喜ばしいことだが、そうでない方方に対しても愛を注ぐ神父であって、また教会であらねばならないと彼は言う。
日本社会ではまだまだキリスト教は異端である。それほどのステイタスはない。
それでは日本の寺院はどうなっているのだろう?
ステイタスというものが邪魔をして、やはり貧乏人を目の敵にしがちである。そしてキリスト教の慈善活動があるのに対して、仏教の慈善活動はすこぶる下火になっている。
炊き出し活動はそもそも仏教寺院の専売特許だったのではなかろうか?明治時代になり、風向きが変わったのは妻帯が許され、寺院経営がシビアになってからのことであろう。しかもアジアの伝統的な偏見として乞食という階級に対しては差別感が根強い。たとえば生活保護受給に対してかなり批判をする風習がいまだに残っている。慈善活動とともにキリスト教とは好対照になっているのだ。
面白いのは生活保護に理解があるキリスト教系の考え方では努力や工夫といったものは要求しない。愛をもって養生させることを優先する。困窮状態の方というのは、実際もう努力も工夫もするような気力すら残っていないことが多い。そんな状態の人たちに対して愛、慈善活動、生活保護支給は非常に効果的なことが多い。
ではいつまでも愛に甘えていてよいのかと言えば、個人差はあるが、いくらか少しずつでもなにかやってみようとなるのが通常の人間である。
生活保護を否定して努力や工夫という信仰を強要する寺院というのは、もう檀信徒がいない。お布施だけは受け取るが、なにかあっても助けてくれない寺院というのは、別にありがたくないわけである。困窮者は生活保護を活用して努力や工夫を重ねるという抱き合わせが実際的であるが、早逝してくれたらよいという。
寺院とは言え、これは神社神道の考え方によっている。したがって行政は生活保護の申請をさせないように徹底した対応マニュアルを実施している。厚労省がいくら通達を出したって地方の受付が受け付けない問題がたびたび報道され、しかも改善される兆しはまったくない。
先の大戦で大日本帝国は完全に敗北した。戦時中の貧困状態、困窮状態に対して、日本軍は自害を強要し、捕虜を強制労働させ、植民地で略奪を繰り返したため、戦闘態勢がまったくとれなかった。戦争とは名ばかりで、実に狂気の庶民いじめそのものであった。天照大神もさぞかし迷惑しているであろう。
今の日本政府と地方自治体の施策を見ていると、どうもあまり変りばえしない。
連合軍はきちんと食事をして、ストラディバリのコンサートを戦地で聴いて、整った体勢で元気いっぱい戦闘に臨んでいた。餓死しそうになって捕虜になった祖父の話によれば、実にアメリカ軍の収容所は好待遇であり、終戦後は収容所内での雑務に対して十分な賃金が支払われた。
日本軍の処遇とはあまりに天地のひらきが大きく、その驚きを祖父は幼い私にたびたび語ってくれたものだ。
無反省な日本人たちは、いまだに貧困層に対して、むげに冷たくあしらうことを繰り返している。まともに食べられないのは、数千万人規模になりつつある。
戦争をするのには食料と武器弾薬、息抜きと訓練が必要である。
今の日本の国際競争力はずいぶんと低い。破滅的である。
貧困層を増やしていってなんら問題意識を感じていないし、生活保護は悪であるという思想宗教観も30パーセント以上の日本人には残っている。大学、専門学校だけではなく企業内訓練まで費用を削減しているため、これからますます日本企業のサービスの質は低下する。企業内訓練費をケチって高卒大卒専門職にバリバリ働けという日本企業、政府というのは、少しおつむが弱いのであろう。
自殺者や変死者が増加したのは、戦時中に玉砕した人達のことを思い起こさせる。手りゅう弾や拳銃がなくても日本人の多くは自殺することがやはり美徳であると考えるのである。
日本政府だけでなく日本人がそのような学ばない民族である以上、貧困対策は科学者集団共産党と異端のキリスト教系だけの専売特許のような状況が続くと思われる。
神社神道を拝むということは今も昔も自殺や虐殺を美化推奨することに他ならない。
日本国民として日本のため同じ日本人のためには神社は拝まないほうがよい。日蓮正宗では拝んではならないと明言する。
それを日本政府は無反省に神棚を公共の役所内に祀っている。
最近、貧乏人は死ねという記事を書いたが、内容が部分重複している。
ご容赦願いたい。
此の国に生まれてきてよかったのかどうか?今のままでよいのかどうか?
みなさんも少し冷静に考えていただければ幸甚である。