FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

のび太の草むしり

むかし、ドラえもんが好きで漫画本をよく読んだ。

その中でよくのび太がママから庭の草むしりを言い付けられて、さっぱり根気がなく、2、3分、むしったらヘトヘトとやめてしまう。

やったふりだけ。

自民党政府の統一教会問題対策や反社会的勢力対策は、まったくのび太の草むしりだ。

庭の草が伸びているのを確認し、統一教会被害者続出を報告され、反社会的勢力の違法商法の一角を把握するが、2、3回窓口対応し、数例のマルチや性風俗営業を捜査逮捕したらあとは知らん顔。

とてつもなく仕事をしたようにマスコミで大々的に宣伝するのだが、あとは草伸び放題、創価学会やりたいほうだい、投資コミュはびこり、暴力団資金源も温存。

統一教会2世の被害者たちの話は、政府に黙殺されているのだ。

自民党は、違法不当なものを見逃して、その収益から政治資金を得ることに慣れきって、なんの反省もないのだ。

日本中で、ボッタクリ被害が多発し、子供たちの将来が閉ざされ、のたうち回り、事実上なんの救いもない。

ありのままに日本には社会正義がないが、それが政府主導、神道の主導によるものであることは明白である。

悪を悪と言えない、詭弁家の政治屋さんたちを選ぶイカれた日本人たちは、救いようのない野蛮人たちでもあり、一般大卒勤労者の多くはまったく仕事をしようとしない、誤魔化し続けるのび太のようでもある。

泣きつくドラえもんは登場しない。

裏話として、ドラえもんが口を開き、四次元ポケットに手を入れようとすると、急に神主たちが危険だ、危ない、中国の手先だと騒ぎ出す。

成長しようと言えば、高齢者を虐待虐殺すればみんな豊かで幸せとしたり顔。

国民の声を抹殺して耳を傾けたというだけ。

聞くために聞いたというよりは、聞かないために聞いたふりをしただけ。

不誠実で無責任で残虐なので、国民からの信望がない。

少数派の神道団体やナチス党が議席過半数になって、国民生活がまともにいく筈がない。

かつて国民の1割の支持からヒトラーが政権をとったのと同じ。

まともだとは考えられない。

10万円20万円30万円の給付が国民経済と日本経済に今必要だということも理解出来ていない。

土(統計)を見ればカラカラで割れている。

アスファルトとコンクリートで見えないだろうという神道政府の視力、思考レベルはその程度なのだ。

そのうちたんまり予算をかけた手榴弾が政府から国民に支給されるのだろう。

擦弦楽器の発表会のすすめ 任意の必須

子供も大人も発表会で弾くのはとにかくオススメ。

特別な事情、法事とか欠勤できないとか、どうしても参加できない方は致し方ないが、そうでなければ参加しない手はない。

手とは将棋や囲碁の話だけではない。

どちらかと言えば子供のほうが成長著しいと考えるのだけれども、正味は同じで、未完成だからこそ舞台の形式を踏んで演奏する意味と効果がある。

専門的には、目標は公開演奏というひとつの形であり、平たく言えばシンプルにどこかで誰かに喜んでもらうためである。

人が聴いて楽しめるように、日々練習に取り組むわけだから、本番の練習として発表会がある。

本番が家庭内とか会のだしものとかコンクールとか専門科入試とか各々違うだけで、目指すところは良い音楽を奏で人を楽しませることだ。人も自分も音楽は良いなと感じられるようにつとめ一歩でも近付こうとする具体的な方法が発表会なのだと思う。    

なぜか日本の音楽教室では年に一回か二回程度しか開催されず、わたしが通った教室では年に四回プラスアルファだった。

わたしは数年間だけだが、年に四回以上きちんとしたピアノ伴奏のホール演奏の機会に恵まれた。

昨今の経済環境で困難な方が増えて、誰でも出来るという印象ではないが、熱心ならみんながみんな参加可能性がないわけでもない。そこは真剣な気の持ち方がいくらか影響する。

とにかく数年間、正式な発表会にまともに4ヶ月ごとに参加してよかった。

機会があれば、伴奏とか共演とかで演奏するべきだし、それはつまり本番の練習には食らいつくくらいの勢いが要るのだと言いたいわけだ。

幼児期だから伸びるというのは、絶対幼児期しか伸びないというわけではないから、いくつになっても挑戦するべきで、二十歳や30代なんて若者の青二才でチャンスなのだ。

さらにわたしは40代の後半になって再挑戦するのだが、ある有名なドイツの教育者の見方とバイオリンの専門家の記述を総合的に解析すると、人間のひとつの完成は60代、7年ごとに成果が出るとされ、いましばらくは伸び盛り、還暦以降も筋トレ効果は高くて練習の成果が期待出来る。

極限を極めている人だけが老化で衰えるから、彼らは大人になってからでは遅いというだけのことだ。

極限なんて必要ない大多数は伸び盛りの自分と向き合うやりがいを見出だすのも大切たろう。

ただ聴く人を楽しませることを第一にする純粋な人ならば、難易度のハードルとか見栄とかにこだわらずまずは本番の練習をしなければ人が楽しめる演奏になっていかない。

失敗やミスは準備の練習がまだ出来ていないからで、自信がつくまで発表会に出るという粘りが要る。

もうひとつ、講師の立場から言えば、発表会を避ける人はあまりにも伸びないので、教えがいを感じられずにヤル気はそれほど盛り上がらない。

発表会でうまく弾けない人は練習や演奏があまり楽しくないからで、それはそのままレッスンの内容が掴めないからなので、なにをどう練習したらよいかわからないため。

そこで発表会のために懸命に努力して一つでも掴もうとする機会がどうしても必要で重要になる。

思い出してみると、幼児期は余計なことを何も考えずに曲だけに集中して、ひたすら懸命に曲を楽しめたが、大人になっても余計なことを考えず曲(音楽)に集中できるように楽しめるように、もちろん私事の範疇だが、なにをどう頑張ればよいのか試行錯誤してみようと思う。

わたしの場合、ここ10年余り、人に聴いてもらうと緊張が半端なく、弾いている間中トンでいるので、やはり慣れが必要だなと痛感して観念した結果の参加でもある。

そのうち感想をまた記事にしようと思う。

バイオリンで疲れなくなる?

あるバイオリン講師、自称ミュージシャンはバイオリンは疲れないと言っていて、その意味合いをわたしなりに考えてみた。

わたしは現在進行形の生徒であり、レッスン受講歴は12年をこえたところである。

途中、家庭内の重病者や受験や社会人としての都合などでブランクが長過ぎて、一般的な参考にならない部分は差し引いていただきたい。

千住真理子さんはレッスンから帰宅して玄関で倒れてそのままダウンすることがあったとか。

諏訪内さんは10時間ごえの練習をしていたとのこと。

プロオケ(日本の情報)では合わせ時間は1日4時間を下回るところなんてない。

バイオリンという楽器は立って弾いたり座って弾いたりするが、中年以降は座って弾く技能が要る。メニューインが言ったとおり疲れるからである。

もちろん講師はそれが言いたいわけではない。

疲れないということと、楽しい或いは余裕があるということは重複している。

気力体力があるほうが、やはり楽しく余裕があるから、より疲れない。

基礎体力の問題によって疲れやすい人はたくさんいる。

つまり乾布摩擦とか持久走とかに挑戦して体力づくりをすれば、バイオリンは楽しく弾ける。

次に、音の質を高めると疲れない。

上手くなればなるほど、まともに弾けるようになればなるほど、疲れない。

集中して音程の精度を高め、訓練してリズムの精度を高め、経験して時代奏法や作曲家の奏法をおぼえることで、疲れないように進化する。

新品の革靴は最初はすぐ痛くなり疲れるが、馴染んで足とぴったりくると実に長時間快適になるように、どこまで楽器と自分の耳がフィットするか?

サクサク感にスッキリしていて疲労感はおぼえない。

さらに、共演者や伴奏のレベルが加わって、楽しく余裕で弾けるならば、よりいっそう、それほど疲れないものになる。

残念ながら、わたしはまだその詰めが完了していないので、微妙な学生コンクールレベルでしかお仕事になったことはない。

それでもそういう違いはあるなと思う。

講師は有名音大卒業生ではあるが、業界の階級的平凡さもあわせ持つ方なので、なんとも言えないが、肩当てが要らない奏者として熟練者であることは間違いない。

構えが綺麗なら疲れないという場合、フィンガリングもボーイングもほぼ完璧だという意味で、身体全体が自然な脱力をして、かつ演奏者としてのノウハウもあれば、疲れないだろう。

熟練者たちに扁平足はいないと思うが、弾きながら軽やかに踊る感じ。

構えは決して固定するものではない。

それだけ上手な人でも、急に慣れない知らないアニソンやれとかハチャトリアンのコンチェルトをウィーンフィルソリストやれとかふられると疲れるのではないかと思う。

急に身障者になったら、心境が変わったり体幹がずれたりして、しばらくは疲れるだろう。

つまり平均的な能力で通常の器楽演奏教育を受ければ、だいたい1日5時間前後音を出してもケロリとしたものである。

どうしても音の精度だけは日々集中して再確認が必要だが、疲れるとしたら原因が必ずあって、講師に教えてもらうのが1番だ。

疲れるあなたには、飛躍のチャンスが待っている。

誰もがそうであっただけのこと。

本番前に控え室で目を閉じ、疲れたら深く眠るのがバイオリン弾き。

集中のレベルをあげることと同じことでもある。

冴えていればそのぶん眠りも深くなる。

同じ短い人生なのだから、より良い方向へ進みたい。

被害者の凶暴性

近代法では自力救済は禁じられている。

目には目を歯には歯をという古代の教えは野蛮であり、リンチ(私刑)やさらし(見せしめ)は禁じられている。

そこで、釈迦や日蓮やキリストなどの聖人たちの教え、東洋の仁義礼智信(五常)を知らない人たちは、法律に猛反発する。

犯人、加害者を裁判で死刑にしろ、精神障がい者ならすべてさらせと主張している。

彼らに共通しているのは、身近な人が犠牲になり、目には目を歯には歯を。以下残虐で省略するが、要するにユダヤ人と同じ未開の民だ。

感情論なのである。

感情を晴らすための加害行為を正義であり、正当な主張だと信じ込んでいる。

被害者がセルフコントロールすることは容易ではないから誰もが気の毒に思っている。

しかしながら、気の毒だとか、つらいということと、報復してよいということが一致してはならないのだ。

被害者も加害者も傷を負っている。

時系列で先に傷を負っていたのは加害者だ。

加害者はかつての被害者。

負のループをたつことが1番だろう。

たとえ加害者を死刑にしても、精神障がい者を隔離しても、数千万人の加害者予備軍がいることが最優先の課題だと認識しなければ、犠牲は増え続ける。

むかし薄気味の悪いゾンビ映画を見たが、あの世界はこの世界。ひたすらゾンビが感染するのは、憎しみや報復の心が伝染する恐怖なのだ。

神は憐れみ赦し、仏は慈しみ、罪人は受け入れられ、悪人も成仏する。

被害者救済の真意は被害者の心の救済だけではなく加害者救済と治療であり、罰を加えることではない。

加罰を第一にすることこそ、ゾンビに感染している証明。

加害行為に及ばざるを得なかった悲惨な人を1人でも救済することで社会は一歩平和になる。

予備軍の数千万人の1人1人を救済する具体的方法を真剣に考えて実行していく心になれば、その人の心のゾンビウイルスは死滅したということだ。

迷惑行為の段階でも構図は同じ。

相手を許すことは簡単ではない。

決意がなければ不可能だ。

動機を知りたいと考えるのは、加害者の人生をすべて詮索するようなものだし、世界の多くの宗教やたくさんの教えや階層ごとの常識の違いを理解しなければ動機は理解などできない。

加害者の生存権を奪う権利まではないのだ。

被害者になる前に、多様な人間と異なる階層を知る必要があったのだろう。

よかれと思い、職務上の精一杯と思い、努力しているだけでは、われわれは平和に幸福になることができないことを知るべきで、被害にあう今までそのことに気が付いていなかっただけなのだ。

たいていは法律が悪いのではない。

宗教や社会規範と信じ込んでいる常識に重大な間違いが隠されている。

その間違いから潜んでいたウイルスが騒ぐだけだ。

ベテルの家の言う降りていく生き方について

精神障がい者のことは他人事。

わたしは北海道にはまだ渡航したことがない。浦河の障がい者のためのベテルの家というものを完全に理解していない。

ただ、キリスト教ソーシャルワーカーの向谷地さんが語ることや動画を見て、真言宗の僧侶がベテルの書籍から語ることを聞いていて思うことはある。

病院から地域へ障がい者が生活の場を移す時に、地域で偏見と差別が起こるのは、見た目が整えられず受け答えなどが難しいこともある。

基礎的な家庭教育と被ることができていないと知らない人から目立つので難しい。

目の敵にしていれば揚げ足を取る。

偏見差別をあたりまえだというのは、一般の人も含めて教育しなくてもあたりまえということにならないのかと心配だ。

ハンデに配慮しながら、ひとつひとつ懇切丁寧に教えてあげて欲しい。

下に降りていく生き方は、僧侶が言うとおり進歩、商業を第一にする資本主義教育とは違うので、難しいし悪いイメージ。

転ずれば、障がい者は大人しく弱って早めに死んでも仕方ないということになり、平均寿命を縮めるから、医療や人道からは問題になる。社会学などでは階層を下に設定して地域から追いやる意味あいが生ずる。

優しく絞め殺す安楽死につながりかねない。

キリスト教の神父牧師たちは、困窮者を上から目線で見ないように言うが、障がい者困窮者に上がっていく生き方を誘導するのが、そもそも自立支援という言葉の意味だと思う。

ケアしながらという同時進行の事業なので難しいケースも多いだろうが、基本的な方向性が違うようだ。

世の中の各種障がい者は各方面で活躍している。

障がいをおったら、それで人生が終わると考えることは明らかな間違いだ。

生活上必要な社会的スキルの基礎を確認しながら、すべての障がい者が希望を持てる進歩向上の水先案内人としての障がい者福祉従事者であって欲しいものだ。

人間なら障がい者が虐待されたり虐殺されたりすることのないように、歴史を顧みて、政府や医療を監視しなければならない。

偏見を持って差別の先頭に立つキリスト者仏教徒すら存在する。

国会議員も含めて人間性に問題がある日本人が多いのだ。

すでに弁護士と医師で生活費を逼迫させて経済虐待は国中で満ち溢れ、基礎年金を五万円に引き下げるとなると、一般国民は他人事とも思えない。

日本人の知能程度は、障がい者を落とすことに熱心で、自分たちが一緒に落とされていることすらわからない。

レベルがあれば、障がい者に不自由させないでよいように、生活を豊かにしていくものだ。

白人優越主義を丸呑みして、日本人の処遇を下げるだけの愚かな官僚や医療者は、見下げ果てた黄色人種の敵である。

人種差別しているのはまず官僚や医師たちである。

日本人が穏やかに暮らせるよう

このブログは政治の話題も多いが、政治活動はまったくやるつもりもないし、不向きな性格だから興味や意欲はない。

宗教、経済、政治、文化などは本来生活を充実させるためのツール。

国益は株価ではない。

すべては国家地域の繁栄と平和のため。

ブログは各個人の立場をこえて全員が幸福追求できるルールや制度をきちんと議論して作る一助になるように様々な視点を提起提供することが主眼だ。

自己個人の優越性を主眼にしているみなさんも、よりよい選択をするために読む方も、今の日本がどうなのかを知り、どうしていきたいのか考えることはできる。

ジャンルや差異をこえてもなお大切なところをまず知り、人類の有り様を知り、そこから日本の宗教、政治、経済、文化を改良していくこと。

虐殺や戦争の悪役がはっきりわかりやすかった時代から、何が正義かわかりづらい時代となり、具体的対処法も複雑化していつの間にか悪役の子分になっているパターンがほとんど。

防衛産業の足腰をつくるべく政治が偏向して突き進み、日本人は滅亡させられつつある。

数十年前から警鐘をならしてきた学者たちは、今、確信を深めている。

だからこそ国会の少数派は黙らない。

日本の足腰は日本人の足腰で、そこを作って余裕が出たぶんだけ防衛産業の足腰ができる。

カスカスでふらふらしている日本、日本人だらけになったので、統一教会創価学会などはやはり不正の温床として解散命令を発出するべきだ。

中国による日本吸収占領の数十年後の時に備えて今は日本人の足腰を作るシフトに転換するべき時期である。

足腰を崩して日本が倒れつつある現状認識に欠ける日本人たちは愚かである。

対米自立はシンプルに日本人を増やせばよく、各分野の指導的立場の人たちがその意味すらわからないようでは、国民は悲惨な日常になるしかない。

考えてよりよい選択を。

安倍は国葬参加者も少なかった

都内を散歩していたら他県のパトカーがたくさんドライブしている。

費用も大きいし、渋滞が発生。

むかし、護国寺尾崎豊の葬儀があったが、三万人の参列だったような記憶がある。

安倍はそれほど偉大な政治家だったのか?

心底悼まれる人物だったのか?

参列参拝二万人と不人気きわまりない寂しい国葬になり、首相の判断は間違いだったことがよくわかった。

日本を破壊しつくした極悪非道な安倍政治の罪が大きすぎることを、岸田首相が理解しているとは思えない。

残念な日本になった。