2012.10.01

安楽死や自殺幇助が合法化された国々で起こっていること
という記事を読んだが、もともとの私の考え方を一度書いておく。
家族や家族的な立場の人間が要介護者を殺害しても構わないという法律ができ、警察が捜査を放棄するのは、重大な問題だ。幇助であれ、安楽死であれ、俯瞰すると殺害にすぎない。
悪魔の囁きへの従属そのものを法律で保護するのは、そもそも専門職や国家的な使命や役割ではない。
介護が必要な人達を抱えるのは、これからも永遠に人類の宿命だからである。
介護義務を苦痛に感じることがあるのは、各人各様の時期的な試練であり、本来は社会で包摂支援していくのが健全な形式である。
どこの地域国家であれ、安楽死や自殺幇助には慎重でよい。宗教的理由で安楽死処置をしない医師もいるが、それは神を信じていれば自然で当然のことだろう。
そもそもそこまで死にたいと願うからには、解消されるべき問題が別にあるはずだ。
死でなければ解消されない苦しみイコール救済策の欠如である。
救済策と療法は同じ単語であり、広義の療法が尽きて絶望したときに、はじめて浮かぶものを、冷酷無情な医師や堕落した親族が悪意をもって、患者を殺害したいという欲求を満たすために国家や第三者が手を貸してはならない。
このような意味においても、日本の精神医療や高齢者問題は極めて深刻である。
医師も官僚も自らが神ではないことを自覚しなければならない。
患者をそそのかして不当に利益を獲る者たちが多くいる。
介護の大変さに同情を集めるだけで殺人を正当化することで、ますます人類は総体として不幸になる。
そこまでして得た臓器で生存しても幸福などありえない。
親族を殺害して(死に追いやり)幸福だというのは、異常な心の状態であり、憎しみのあらわれであり、人間の放棄であり、カルト性であり、エゴイズムでもあり、増上慢の極みでもある。
医師も医師を自ら放棄する宣言になることを自覚するべきで、その類の医師らは監視して忌避すべき悪魔の化身である。
法的に正当とされても、それは永遠の正当性ではない。