FujiYama’s blog

日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

日本のエリートは中華の非科学的思考

みなさんが思い浮かべるエリートは、有名大学を卒業して官僚や大手有名企業社員になり、あるいは医師や弁護士などの資格を取得して国公立独立行政法人に入ったり、またそのうち起業して経営者になるなど、なにかアタマの良く稼ぐのが優秀という部類の人たちだろう。
それはそれで確かにエリートで、みなさんが一定の優秀さを持っていることは間違いない。
しかしながら、原発事故や政治腐敗などその優秀さを私利私欲のために使うと様々に社会の不都合や軋轢が引き起こされていることも知られている。
エリートの特徴は学業に長けた点であるがその裏返しには、貧乏人や障がい者、果ては高齢者のことなど知らないという極端な考え方がある。健康であればこそ、収入があればこその知能レベルというものを、貧困層障がい者や高齢者に同じように求める。
個人的にパラリンピックの悪用だと思うが、障がい者に健常者と同じ成果を求める。貧困層に教育もうけさせないで稼げと発破をかける。
年金支給額を増やさないようにする法律もできた。雇用の流動化が悪いことでも時代の流れはアメリカナイズだと国民を洗脳する。25年間給与水準は下がり続けた。政府支出を抑制して国民の税負担をひたすらあげ続けた。景気は下がり続け株価だけ上がり続けた。
この25年くらいの間、日本社会はただ不景気に染まった。みなが貧困化した。
しかしエリートはさらに裕福になった。富裕層だけが裕福になるシステムがほぼ完成した。
エリートの言い分考え方は、それは考えようだということである。足るを知る者は富むというアジアの古典があるから、所得が減っても貧乏で満足して当然だという。これから先の日本人の収入をさらに下げていく考え方がみてとれる。もう韓国人の平均収入を下回ったという衝撃的な数字も出ている。
エリートは意図的に日本人の収入を抑制している。政府支出を削減して公共投資を抑制し教育予算を削減し地方公務員を減らし待遇を劣化させた。本来理性があれば国勢を拡大させるために、国の繁栄を維持するためになすべきことを、国家レベルで拒否している。日本人が貧しくなるように仕向けて国際的地位を下落させた。
なぜそんなことをするのか?
そこには日本人が減っても困らない、中国の下についていれば自分たちエリートは安泰だというアジアの伝統文化による考え方がある。
アジアの伝統文化は国の繁栄や市民の自由を無視して拒絶している。それは中国だけではなく日本のエリートも同じように拒絶している。
自由や民主主義はアジア人を堕落させる有害なものであり、中国共産党のもとにアジアは統一されるべきであるからという考え方だ。日本は日本が統治しているなんて日本のエリートは思っていない。アジアの伝統文化によって統治していると信じている。
今や自由と民主主義は常識であり世界的な価値観となっているのに、日本の支配層はまったくそんなもの認めるつもりがない。
アメリカに勝てないので逆恨みをして日中友好というのが本音である。
国民は欧米の価値観と文化に慣れ親しんでいるつもりの人が多いが、政府やエリートたちはアジアの強権専制政治しか理解しようとはしない。
欧米はなぜ現在も繁栄して豊かな生活ができているのかといえば、世界史で学んだとおり専制政治から民主化して伝統文化に一度決別をしたからである。欧米政治では伝統は打ち破られてみんなの収入を保障するのが当たり前になった。気持ちの持ちようで貧困が解決するなんていう非科学的なことは犬でも言わない。教育レベルの保障と所得の保障と一定の社会保障を守るのは常識的ルールであり、欧米のエリートだけではない欧米先進国の万人が当たり前のこととしている。
そろそろアジア人たちも気がついているのだから、アジアの政治は変化する時が近づいているのではなかろうか?
刑法や民法儒教の影響から脱皮しつつある。理不尽で人権感覚のない悪法は一刻もはやく改正されるべきだ。
藤井聡教授らの尽力もあって政府コロナ対応に科学性がないなと国民が気が付くのにそう時間はかからなかった。アジアベッタリの自民公明では中国問題も含めた不正に歯止めが掛からないことも広くみなさんが気が付く事態になった。千葉知事選に続いて広島でも自民党が負けた。
結局科学性のないアジアの伝統文化はみんなを不幸にするものとして、やがて駆逐されていく運命にあるのだと思う。軍政なんて誰も望まない。
私利私欲のエリートのための政治が長く続いてきたアジア政治を変えることができるのは、アジアの市民しかいない。欧米を逆恨みするのではなく前向きに捉えて、敵国条項というせっかくの見守りがあるのだから思い切って古い伝統から脱皮して存分に人生を謳歌できるように知性と理性で政治を変えていけばよいと思う。

山尾志桜里議員の国会質疑 バイデンか習近平かの二択

国民民主党山尾志桜里議員が2021年4月7日に外務委員会で「人権侵害制裁法、人権デユーディリジェンス法制化」について質疑を行った。

YouTubeにアップされているから興味がある人は見てみても面白いと思う。

中国共産党による人権侵害問題と日本企業が人権侵害に加担しないようにするにはどうしたらよいのか?国としてなすべき具体的方策はいかなるものか?ということを国際比較をしながら茂木大臣に対して次々と論理的に指摘をしている。

官僚の答弁もふくめて、政府がいかに人権分野について消極的かということがよくわかる答弁が繰り返される。

まったく日本政府として人権問題なんかよりも商売して儲ければそれでよいから誤魔化せるだけ誤魔化したいという魂胆が見え見えである。

尖閣問題で米軍や英連邦の援軍は欲しいから、首脳会談などでは人権分野に賛同してみせるだけで、具体的には人権侵害OKという姿勢である。

欧米の政治家や人権団体というのは、そこのところをよくわかっているからごまかせないのだが、政府は日本人の目を誤魔化せば、自国の内政問題に振って国際社会もなんとか誤魔化せると踏んでいるのである。

在日米軍基地というもの、日米安全保障条約というものが、どのような性質のものかわかる。

それでは対等な条約にならないし、なるはずもないのだ。

人間として対等に対話できて、国と国が対等な条約を結び、そして基地の使用をさせるという同盟が成立するのだが、人間として許されない人権問題を看過していてはアジア人ウイグル人そして日本人は不幸である。

実際に日本人の日本国内の人権問題に対して日本政府がどの程度積極的に関与し、改善のために権限を行使しているかというところで、非常に疑問が大きい。警察は捜査をしたがらず、マスコミ受けのよい件だけ捜査アピールするみたいなことで、検察官は障がい者が被害者になると起訴をなるべく避ける。ちなみに山尾志桜里議員は元検察官だ。そこの内幕をよく知っているわけだ。

日本国内の人権問題すらなるべく知らない顔をして犠牲者を無視するような統治をしていて、はたして大陸のウイグルなんて奥地のことにまともに日本政府が向き合おうとするのだろうか?はなはだ疑問である。

別に支持政党というわけではないのだが、的確な政府としての対応を求める理性ある質疑だなと感心しつつ、プライベートや議員パスの不適切使用の問題は、日本の国益にとってあまり重大な問題でもないのかなと思った。

個人の問題と政治家としての仕事についても、判断する国民の側が混同しないようにしなければならない。

不幸ごとはないに越したことはない。しかし不幸ごとに振り回されるよりも、不幸ごとを起こさないようにする理性ある合理的な対応を政府としてきちんとする方向に具体的に持っていくことが、この国会質疑の肝になっているのは、多少皮肉な感じもするが、人間の複雑で割り切れない全体像を考えさせられた。

いずれにしても日本国が国際社会の一員として協調して文化経済交流をしていくことができる大前提としての人権分野における法整備はぜひとも進めて頂きたい。

アジアのイエローモンキーには人権はわからない。

しかし今はもう21世紀で留学などの国際文化交流が進んでいる時代になっている。

この時代の変化を的確に掴み取って、着実な改善につなげていく能力が今の日本のエリートたちには求められている。国民もその程度の目はしっかりと持っていかなければ、馬鹿のままでいいと開き直るイエローモンキーたちは胡坐をかいたまま、人権問題にかえって加担し、悲惨な事件事故を多発させて我関せずという前近代的神道政治が維持されることとなる。

いかなる理由があろうとも残虐非道な神道政治は変えなければならない。

日本政府は中国共産党北朝鮮と同様に真実世界人類の敵なのである。

なぜ世界は欧米を中心に動くのか 神道やめますか?それとも人間やめますか?

日本人は日本が一番だと思いたいらしい。住めば都というヤツである。四季のある自然も豊かで美しいし、歴史が2000年くらいあるので、もうもしかしたら世界一ではなかろうかという感覚なのである。

しかし、世界はまったくそうとは言えない基準で動いている。

日本の世界ランクというのがたくさんあるが、あまり優秀であるとは言えない。どちらかと言えば中の下くらいで、逆にこんなに人口がいるのになぜ?という現実が多い。

極端な話、欧米人は人間とか生き物として優秀であり、アジア人は動物以下のひどい生き物だなあと思う事実根拠がたくさんある。

国際比較というのは、今や情報公開されており、史実についてもかなり知られているから、みなさんうすうす気が付いているのではないかと思う。

留学したりホームステイしたり移住する日本人がかなりの数になってきて、むかしよりはその実感がわかる人が増えてきたのは、よい傾向である。

それぞれの政治文化の基準の違いに着目すると、そこには宗教的な違いが間違いなく存在している。通常の平和な間に、欧米が何を基準にしているかと言えば十分な教育と十分な環境と収入が保障された社会であるが、これはキリスト神の考え方に根差している。労働条件や手当などが基本的に適正な範囲で行き渡っている。それだけではなく戦時中にも十分な食料と弾薬と部隊要員がそろわなければ作戦をやらなかった。

アジア人ははっきりと狂気である。今も平時に困窮者が日本だけで1000万人、国民の一割程度いてもまともに手当をしない。教育費はもったいないからかけない。就労環境もブラックで当たり前。

同じように貧しい人は相当数いるのに、手当がきちんとした欧米と放置されるアジアという構図が変わっていない。

飢えた国民がたくさんいて、戦争に負けたのは当たり前で、兵隊はまともに戦闘ができず、神道の指導者たちに人として普通の理性ある判断や統治などできるはずがない。

キリスト神と神道のレベルが違いすぎたので、まともな戦争ができなかったのである。

ふつうの心持が違うのだ。平常心が神道では犬猫以下の感覚であり、国民も兵隊も疲労困憊してまともな思考もできずに突撃だの玉砕だのということになった。

ただ敗戦したから国連の敵国条項が残っているのではない。

今も日本政府は国民を窮乏させ続け、生活保護は水際防止作戦を徹底し、手当はとにかくしない、自殺者はまた増加に転じ、医療費と社会保障費を抑制し続けている。

この人道上の無反省ぶりが明確であり著しいために敵国条項というのは維持されていると私は考えている。

中国共産党の言論や政治活動に対する弾圧も、ターゲットにされるのは当然である。

要点は、すべての国民が人としての能力をいかんなく発揮するための前提条件を整えることを最優先しなければならないということ。

人道は外交カードではなく、基礎条件であり最低限のルールである。

国の総合力を比べるときに生産力やGDPを比較するが、この額だけを比較しても駄目で、それは人口が多いほうが大きく、天然資源が多いほうが大きいからである。

比べるべきは人口一人当たりのGDPであって、つまり国全体としての生産性がどのくらいのレベルかというのが、国の優秀さを決定する。その意味では欧米は無敵の強さを誇り続けており、しかも科学やスポーツの分野などにおいてもその強さは歴然としている。

この国際競争力と国の強さを決めているものは、平時における心持の違いなのである。

神道では努力、頑張り、自腹を優先しすぎており、武器なしで戦えと言っているだけであり、科学技術は軍事転用と富裕層向けの高額医療にのみに焦点を絞って、一般的に学問は無駄であると教えている。社会科学を理解している学者すらほとんどいない。それではどうなるかと言えば、富裕層だけが教育をきちんと受けられて武器対等を手に入れ、1億2千万は、うち半数近くが無駄に大学等を卒業して努力と頑張りを期待されるのである。大学に行ってもなにも役に立たない学問をすることがあまりに多いから、社会に出てからテクニックとして弱者から搾り取ることだけを教えられる。多くの日本人は大学進学をいまだに贅沢だと教えている。社会的な有意義さではなくただの贅沢と教えることが多い。学問や科学技術と生産性という観点がまったくない日本の成人集団がいくら頑張っても欧米には歯が立たないわけだ。ましてや軍事的なところで、相変わらず天照がその精神的支柱として遺ったまま、いくら自衛隊の装備をよくしても、たいした役にたつわけではない。一応仕方ないから自衛隊を設置しただけで、外交力がまったくないままで軍隊を持ってもその効果はなきに等しい。しっかりと国民経済を豊かにして人道性をあたりまえにひろく底辺まで維持しながら科学技術を発展させ生産性を上げていれば、欧米の見る目も変わってきたのだが、前提の人道性というヤツがまったく理解できないままである。

欧米はアジアを商売相手としてきちんと市場に迎え入れているが、アジアはルールがまったく守れていない非人道的エリアである。その改善のきっかけになるように日本国憲法を示した節があるが、日本神道政治は改憲の主張を繰り返すのみである。

多少日本人の富裕層やバカな消費者がよいお客さんになってくれるから、そこまで欧米もむげにはあしらわないが、きちんとした交渉の相手にはまったくならない。

日本が世界で相手にされるためには、まず日本国憲法に明記された人道的な人間固有の権利義務関係をしっかり理解して実現することが先決であり、第一条件である。

憲法を理解できず改憲するということはとりもなおさず日本人は犬畜生と同レベルであると証明することになる。ミャンマーの軍政同様、アジア人だけが人間をやめますという宣言は絶対に回避しなければならない。みんながきちんと食べて教育を受け、自由に労働してその力を発揮できるように社会環境を整備していかなければ、まさに犬猫の世界であり、人間の放棄になる。富裕層だけが人間であって自由も権利も謳歌して、1億2千万は奴隷でよいという神道の考え方は、実際に日本国が国際的な地位を落としていくことにしかならないので、警鐘を鳴らす知識人もいるのだが、神道の考え方によれば、まったく日本の国際的な地位などどうでもよく、ただ自分の資産さえあればよいということだ。

日本の困窮者や労働者が苦しむのは他人の問題であって、富裕層だけが人間であるという考え方である。

ナチス日本帝国主義が世界から目の敵にされたのには、正当な理由があるということに気が付かないわけにはいかない。まだ欧米の世界のほうが、自由で幸福な市民が多い。

社会保障のレベルは表面的にはあまり変わらないようにも見えるが、支給率がまったく違うし、コロナ対応の給付金もケタが違う。日常生活に不安がある日本人の多さと大半が心配なく過ごせる欧米人の違いが、戦時中だけではなく今も歴然として存在している。

はっきり言えば、神道政治に統治能力がないということが、様々なデータから明らかなのである。日本やアジアの国々がなぜ安い賃金でひたすら労働させられてきたのか、国際政治の舞台で発言権が低いのはなぜか。外交でまともな交渉ができない理由は、負け犬根性と非人道的な統治の事実そのものによる。日本の支配層、華族、富裕層が、日本人に対していかなる処遇を是としているかという事実が、外交力の基礎になる。国民の信託があるかどうかの基礎である。しかし教育もまともに受けられない、食べられない子供や障害者たちがわんさかいて、労働環境はゲスのブラック、社会保障に医療費は抑制するというひどい状況を誰もが日常の中で感じているような中で、国力、国際的地位が下がってもお構いなしの政治統治まがいをやっているのだから、黄ザルがキーキー言っているだけに終わるのだ。

日本が米軍の二軍で施政下にとどまる植民地状態を改善するものは、憲法改正ではなく、政府の人道的統治であり、そのための政教分離であろう。

非常に残念ではあるが神道では世界の中でやっていけない。

連戦連敗だ。自民党公明党大本営発表はまったく信じられない。

神道では民族が進化しない。

人類社会の中で取り残され、お金しか相手にもされない。

国民主権基本的人権の尊重という人道上の常識を前提にしたすべての国民を幸福にする護憲政治という方向性が、今広く求められている政治だと思う。

軍政の日本政府 アジアの根深い衛生上の問題点

ミャンマーの問題は、中国共産党の後ろ盾で軍事政権が市民を虐殺したり弾圧したりすることであることだと先日書いた。

日本の軍事政権というのは太平洋戦争中の昔の話だと思っている日本人があまりにも多く、こんなことを言えば大丈夫かと正気を疑われることも十分にありうると思っている。

しかしながら、残念ながら、日本政府は軍事政権である。

まず第一に政治と宗教の問題があり、政府は戦時中と変わらずに天照を祀る伊勢神宮が日本の正式な宗教であるという認識の共同体である。自民党神道の団体を中心とした政党であることはよく知られている。宮内庁においても警察庁においてもまったく誰も疑わない日本の宗教である。この神道が戦争の神であることはよく知られている。

もうひとつ厚労省生活保護の水際作戦を容認して、生活保護の支給率を下げていることである。欧米では支給率が8割程度だが、日本では2割程度しかない。これは北朝鮮の状況とよく似ており、貧困層が多く存在して困窮している事実に対して、民に自己努力を求める政策の取り方である。北朝鮮も軍事費が必要で社会保障をひたすら削ろうというやり方なのは同様である。

第二にマスコミの報道偏向問題である。これは専門家が国際比較を例示してその自由度を公表しているが、日本の報道は政府のスポークスマンとなっており、まったく政府の批判や指摘や情報公開になることをやらない。中国共産党とも協定を結んでおり、中国共産党に都合の悪いことは報じない。今ならウイグル問題をまったく報じていない。欧米では繰り返しその問題映像を放映している。

この政治と報道の関係性がきわめて社会主義国や中国、北朝鮮と酷似しているのである。

第三に日本の防衛力あるいは軍事力である。世界第6位の力を持っていることが、まったく知られていない。ただ全体に占める予算の割合が1%を少し超えたという小さなイメージが報じられているが、実際には軍事大国そのものである。憲法解釈も防衛範囲を拡大させつつあり、もはや攻撃力、打撃力に焦点があてられる段階に至っている現状からは軍事大国だ。尖閣防衛のために必要なのは、これ以上の軍備というよりはむしろ日米安保第5条のほうであり、在日米軍基地であることは自明であるが、尖閣問題がなにを示しているのか考えなければならない。

日米安保はゆるぎないが、それは改憲の必要がない軍政化の実現のために貢献している。法改正するまでもなく、日本政府は戦争の神天照を祀っているので、あとは米軍の二軍でありさえすれば、確実に軍事的優位性をもって日本国内の統治ができるという判断である。自衛隊だけでは中国に対抗できず統治が成立しない。そうなると政府の統治に影響するという考え方なのである。

そもそも国民主権という考え方は欧米の考え方だから、軍事力によって統治するのが統治であって、それ以外は認めるつもりがない。

基本的人権の尊重についても、個人の自由意思や金銭的財政的なものがなければ実際に尊重のしようがないのだが、軍事政権というのはそんなものはさらさら認めるつもりがなく、日本人が貧困化していくように国会の労働法制の議決で誘導し続けている。中国共産党も香港弾圧を法的に行ったが、水面下の外交や報道協定などをふくめて酷似している。日本人が自由に行動を選ぶことが難しい状況になっている。簡単に言えば欲しいものやサービスを手に入れられずに我慢したりランクダウンしたり不便不自由する事態が広まってきつつあるということであるが、これも軍事政府のためにはただ耐えろということである。

その軍政の象徴が官邸主導の強権政治となって、現在の菅内閣の施策が行われている。

中国に抗議しつつ、裏(公明党や外交ルート)では中国と取引を続け、アメリカの軍事力を使えば、日本人は思い通りに使えるよき民兵あるいは奴隷になる。

電気代値上げの次は水道を民営化して外資の乗っ取りを誘導して、水道料金を値上げさせる目算である。消費税もさらにあげて大手の法人税は下げる。

中国やミャンマー北朝鮮の話ではなくて、日本の話であるが、認めたくない事実として認識しておかねばならないだろう。

コロナ危機を煽りたて、マスコミがそれに迎合して日本人を脅かしているという現象もまた軍政のやり方そのものの市民に対する弾圧行為である。感染症1,2類というペスト並みの危険性をもつ恐ろしい病気だと厚労省が言えば、それはみんな恐ろしいに決まっているし、政府として過剰な自粛をさせることも当たり前のことだが、不要な自粛を強制するのは実際軍政の横暴そのものである。ミャンマーで学生が自由に抗議活動できない状況とあまり変わらない。香港では活動家が逮捕されたわけだから、そのうち日本でも自粛しなかった罪として逮捕する法律ができるかもしれない。御存知の通り政府案の方向性はまったくそのままであった。

コロナはインフルエンザ程度のどうでもよい感染症であると多くの医師や専門分野の科学者たちは指摘している。軍政の耳には届かない。そんなことどうでもよいからただ従え自腹を切れという感覚なのである。

以上かいつまんで日本が軍政であることと、アジアの問題ある国々との共通項を並べたが、これほど不衛生なことはない。精神衛生や公衆衛生から考察判断できることとして、これほど不公正がまかり通ることは人類社会における重大な問題であると言わざるをえない。

アジアの特徴は儒教道教の上下関係と仏教の諦観にある。そこに悪しき指導階層である中国共産党北朝鮮体制やミャンマーの軍政や日本の伊勢神宮というものが重なったときに、そのアジアの民というのは基本的に不幸な隷属させられる黄色人種になってしまう。

法による統治と治安はすべて軍政のためにのみ用いられ、市民の自由や幸福のためにはまったく用いられない。そもそも弁護士があてにならない。

日本にある基本的人権国民主権などというものは薄氷そのもののまったくあてにならないお飾りにとどまり、ただ恐怖と欠乏にあえいで日々の暮らしをなんとか送るだけしかできない日本人たちという現状がある。働けなければ玉砕でもするしかない。

これで日本の経済が発展するわけがなく、誰一人として幸福になるわけがない。多少富裕層がゆとりがあると言える程度であり、1億2千万人は苦しんだまま悲惨な将来を約束されて死後は黄泉の国、つまり地獄へと落とされていくことになる。

日本には大学教育制度という欧米のシステムがあるが、アジア政治の中の日本として冷静に見ると、その研究成果は無視されその尊厳は蹂躙され続けている。だからこそ中国に嫌悪感をもよおす国民が大多数なのであろう。

しかし、欧米諸国が日本人の繁栄や幸福をなにか実現してくれることはまったく期待できないという事実をよく考えなければならない。商業的に仕組まれた自由、はめられるだけの選択、批判されるだけの権利、媚びさせられるだけの平和、ただ今日、今月、今年だけなんとかなるかどうかで、果たしてそれで幸福な人間と言えるだろうか?

日本人の精神衛生で厄介なのは、歴史的、民族的な洗脳がなされているからである。宗教なんて親がやっていたからやるだけのもので、日本に生まれたから神道の一員であると言われるだけのものである。それを洗脳をきれいに解き放つことができないままで、なにを近代化しようとしても無駄になるし、日本国憲法を理解できない人も多い。9条を改正すれば問題が解決するかのような幻想にとらわれている人たちはまさに神道に洗脳されている。学問が社会で一切役に立たないのだという政府学識のやり方は社会正義などまったく考慮しないが、その根拠は軍政の維持、アジア文化神道による洗脳である。

こういった内容を鎌倉時代にすでに解き明かしていたのが、日蓮である。

日本人は地獄の中に生きており、そのことに気が付かない。

善の力が弱いのがこの末法である。

せっかく大戦争に負けて、今までの常識について考え直す機会を得られた日本人は、神道とアジアの常識に再び飲み込まれている。

ゆたかな近代市民社会という正しく科学的な人類社会の規範をまったく理解できない政府官僚や政治家たちのずる賢さをきちんと把握しておかなければ、日本人はみなさん不幸なままであるが、その正しい認識の前提条件は洗脳からの脱皮であり、日蓮正宗によることがもっとも確実だ。

科学的根拠の把握と科学的思考というのは冷静に判断できる資産や質の高い教養が必要なハイレベルな人材群にしかできないものであり、日本人の大多数にとってはあまり現実的ではない。藤井聡教授のチャンネル登録者数もたかが知れている。今月の収入や財布の残金やクレジットカードの限度額を気にしている庶民が、そんな科学的思考なんてできるわけがないのだ。かろうじて理解しても人間の洗脳を解く能力があるわけではない。日本を滅ぼす緊縮財政の根本原因は、力による政治であり、軍事力を最高規範とする基準であり、軍政実現という邪悪な宗教思想の目論見にある。

従って、ものごとをありのままに見る能力と知恵は、神道によってしては得られないという事実がある。また、よしんばありのままに見たとしても悪い状況をそのまま放置するのが神道の特徴である。神道には社会正義というものが理解できない。輸入品としての社会正義である。その日暮らしのような閉塞した視野狭窄の盲従するだけの都合の良い人間(民兵)だけを丁寧に教育して大事にするという特徴がある。

絶対に民主化ができない宗教であり、そういうふうに洗脳すると人間は隷従するようになるのである。

幸い、ユダヤキリスト文化に学び、日蓮正宗の本尊のおかげ、日蓮の遺した文献のおかげで洗脳が解けて、私は日本のありのまま、日本人の悲惨さ、アジア人の哀しさ、今の時代の課題が克明にわかるからよかったが、間違いなく99%の日本人にはなんのことか、さっぱりわからないのではないかと思う。

日本最古のカルトは神道であり、戦後最近のカルトは創価学会である。洗脳を解く必要があるのは、どちらもあまり変わらないと言える。

日本には日蓮正宗という自由と科学的判断(正しい道理)を重んじる奇跡の宗教が存在しており、その思考判断レベルはユダヤ教キリスト教など足元にも及ばないはるかに勝るものである。たった数年間で洗脳の何たるかが意識的に克明にわかるようになる。

わたしの感覚として日本政府の軍政思想、洗脳による統治は断じて嫌である。できるだけ主体的に作業・労働したい。人や組織に媚びるのを強要されるのはとても疲れるから不可能なのだ。脅され続けて働き続けるというマゾヒストにはなれない。

 

 

バイオリンを弾いていてわかる老化と蘇生(中年版)

YouTubeである70代のバイオリニストがバイオリンを弾いているのを見つけた。70代にもなると個人差はあるが、老化が著しい人は、指がまめらずに音程がとれずビブラートが粗目になってしまい、多少聴きづらい。見つけた女性バイオリニストはもともと世界の舞台でも活躍していたほどのレベルがあったと紹介されており、その老衰ぶりは著しいものだとわかる。

かのアイザックスターンも人生終盤の録音録画を見聞きすると痛々しい。

そんな風になってしまうとあまり楽しく弾けなくなることは確かで、かろうじて楽器の素朴な音色をかろうじて楽しみながら音楽を楽しもうということになるが、これは甚だ心もとない。

私の場合10代半ば頃がもっとも感性豊かな時期で、その感性を表現できていたいわゆる若いころである。弓の毛が完全にグリップしていたのを覚えている。弓先では普通弱い音になりがちなのだが、その弓先でもゴンゴンズンズン思い通りに音を出せていた。それだけではなく、左手の指先に神経が行き渡って細やかな表現がほんとうに楽しかった。あこがれのハイフェッツグリュミオーの特徴を真似てモノマネのような弾き方をしたこともある。

その楽しい感覚は残念ながら15歳で終わり、両親にバイオリン禁止令を発令されたことで、ほぼ完全に失われた。

大学の2年生からまた少し弾き始め、サークルでカルテットなどを組んでソリストもやらせてもらったが、しばらく弾いてなかったのでボーイングはそのころには不確かなものになり、左手の形ができていないままやめてしまっていたから、もう一歩の表現力にとどまってしまう。それでも大学の行事で演奏を披露して謝礼を頂けるレベルではあったが。

その後またバイオリンを弾く環境がなくなり、まったくの趣味の人になる。

時々あるいは時期的に懐かしんで弾いて思い出すのだけれど、20代30代のころはそれほど危機感を持っていなかった。弾けばまた思い出すだろうくらいのもので片づけていた。レッスンを受けることができずにいたので、むしろその環境の方が大きい。とても辛く苦しい時期だったことを憶えている。

ただ30代で古巣のバイオリン教室に年に何回か行くようになった。本当は先生のすすめに従って音大に行きたかったので、とても懐かしく楽しく合奏する機会に恵まれた。

その頃自分の楽器の繊細な表現力に疑問を抱くようになった。教室の先輩のプロの著作を読んで、指先の感覚が100%ではなくなる恐れがあることに気が付いた。つまり自分の感性を生かして楽器を歌わせたり表現したりする傾向が強く、感性頼みで楽器はそれほど鳴っていないという客観的事実に気が付くのである。そのころ自分の感性を100%生かせる楽器たちとのよい出会いがあった。

その楽器店には感謝しているが、数年間にわたってたくさんの名器を弾かせて頂いた。その楽器たちは、本当に細やかで力強くなんの不足もない表現力の基礎を持っていた。

アイザックスターンの使っていたものと同じ作者の弓でスターン愛用だったのと同じガルネリを弾くと、驚いたがアイザックスターンの音色がほとんど同じように出てきた。全盛期のストラド、プレッセンダ、ガダニーニなどの澄み渡った音色に狂喜乱舞である。

なんだ楽器と弓の組み合わせでバイオリンの音色は決まっているのであって、当たり前だが、そんなにただ努力すればよいというものでもないなと思った。

しかしスターンの晩年はその音色からは艶が消えている。

その違いをいかに生まないか、老化との闘いが必要であると悟るのである。

30代まではほとんど我流である。

幼児教育の専門家であられた先生にそれ以上を求めることはできず、基礎練習の仕方をまったく教わることはできなかったので、ようやく40歳ごろから基礎を教わる運びになってしまった。

この基礎練習が年老いてからその力を発揮するものであることに気が付いた。

愚かなことに30代は体力勝負の年代で、私はかなり体を酷使して疲労困憊になったのだが、その結果基礎のないバイオリンでは40歳でどうなるかといえば、最初に書いた70歳のおばあちゃんのバイオリンのようになったのである。指がまめらず弓はふわふわ定まらない。とうていコンクールや音大をすすめられた往年の演奏ではない。しかし音大の実技トップになれると言われただけあって、その不確かなめちゃくちゃな演奏が一定の趣味でやる人たちからは上手であると評され、また一定の専門家たちからは正確に基礎はないがスゴイと言われるのである。

つまり本人は著しい老化を感じながらへたくそになったなあと絶望的になりながら音楽が好きで曲が弾けるからまだマシかなという時期になった。

そのままで終わるのも芳しくない。

さいわいここ何年も先生方についてアドバイスを得ることができ、なによりも体を養生できるようになったので、指先の感覚がわずかだが戻ってきつつある。

弓の使い方も表面をなでたり力任せにゴリゴリやるだけだったのが、自在に弓を使うためにはこんな練習もやってみようという適切なレベルアップの助言を得られて、実は最近ワクワクしているところだ。

右手の弓の使い方でグリップを自在に変化させるというかつての器用な夢の技術を蘇らせることができれば、確実にプロレベルの演奏になっていく基礎ができる。左手の繊細な感覚が蘇って基礎練習で基本的な形ができれば音程を確実に繊細にコントロールできる。

昨年の夏ごろから、楽器のランクアップを真剣に考えるようになった。

名器たちを繰り返し弾いて得られたまともなバイオリンの感性から、どんな楽器を選ぶべきだと言う基準ができたのだが、その楽器選びは本当に重要な表現の幅を決める。

軽自動車ではF1に参戦できないように、どうしても超えられない線があるのだ。

F1は高額すぎる名器にたとえられるが、予算もあるから必要最小限度のもので構わない。

ただ一定の基準さえ超えていればよい。もともとの無知な基準では多くの人が精神を病むような楽器を選んでしまう。せっかく名器をたくさん弾かせていただいたので、一生モノの、どこで弾いても確実に弾ける秀作を選びたい。

また、そうでなければ練習する意味はほとんどないわけである。

よくいる中級者というのは中途半端であるだけのことが多いのだが、その理由は楽器が中途半端であることと、練習内容が中途半端であることにある。

集中力と繊細さを必要とする楽器は、それだけのきちんとした楽器でなければならない。

低いポジションでせいぜい第5、第8ポジションあたりで済むようなアマチュアオーケストラで楽しんでいますという方なら別に初心者用の楽器でもたいして変わりはなく、よい楽器は自己満足というかステータスのためのものに過ぎない。しかし最高音を弾きこなし、第10ポジションあたりを頻繁に当たり前に使う段階になると、どうしても工房製や初心者用のものでは表現力が足りなくなる。

正確な音程であっても工房製は音が濁り、親方製は音が澄む。工房製はミスがミスになり、親方製はミスが味になりやすい。

たんなる生活環境の改善だけではなく、体調を整えながら演奏内容をきちんと組み立てていく場合に必要なのは秀作なのである。自分の感性だけがいくら良くなっても、どれほど集中力を高めても、どれだけよいレッスンを受けても、楽器が不十分なものであれば、なんにもならない。まったくの徒労に終わるのだ。

もうひとつ恐ろしいのは、手袋をしたまま物をつかむような感覚を覚えてしまうことになるということ。アマチュアのほとんどはこの状態でも特に困らない。みんながミスりまくっているので、ちょっとリズムや音がずれたくらい問題にならないのである。

しかし、ピアノ伴奏だけで勝負したりプロと並ぶ演奏をしなければ納得しない人の場合、ごわごわの分厚い手袋をしたままの心臓外科手術のような狂気のチャレンジは避けるものである。

貧困叩きは私の趣味ではないが、有名音大卒のプロで安い工房製らしき楽器を弾いているのに何人か出くわしたことがある。そういう楽器でも音大のカリキュラムをこなしてしまえるものなのだという事実がある反面、ひどい表現力の小ささにはがっかりした。

私は確かに一般的な日本人の中では耳が肥えているほうであるが、それにしてもひどいものだった。そしてそれら安い工房製の表現力乏しい楽器が平気で100万円くらいしてしまうところが、日本人の不幸だと思っている。欧米圏なら30万円以下のガラクタ扱いだろうなと思う。若くて訓練をきちんと受ける機会に恵まれた人たちが、そんな現状のままではなんだか悲しいが、それもお国柄であり人それぞれの事情である。

私にも音楽の教育機会の乏しさという事情があるから、そんなものかもしれないと思う今日この頃である。

そこそこの難曲はこれからモノにするのが難しい年代になってしまったが、いたずらに絶望に暮れることなく、肉体的蘇生とともに音楽的蘇生を実現し、その表現も存分にできるようになるべく、出来る限りのあらゆる努力を重ねて、秀作選びを慎重に進めたい。

まだまだ人生の半ばで偉そうなことは言えないが、今言えることは人間は努力や頑張りの不摂生で誰でも老化が早くなり、きちんと人間としての理性ある養生をすれば着実に蘇生していくことができるということだろうか。美辞麗句に踊らされず、自分をいたずらに消耗しないで、科学的に有効な予算と労力のかけかたをすることは、幸福な人生の基礎的な条件かもしれない。

 

精霊(気)を感じて選ぼう

森林浴がてら山歩きなどしていると、信じられないような美しい気を感じることがある。さわやかな清々しいような気に出会うと幸せである。
反対に陰惨で薄気味の悪いような空間を突破しなければならないこともある。
街中を歩いていて、好印象な人とすれ違ったりなにか違和感を感じる人に行き合ったりすることもある。
われわれはそんな経験を毎日しながら生きているが、実に無頓着に生きている。
多少意識的に空気清浄器やアロマやお香なんか使う人たちはいるが、もちろん臭気だけの問題ではない。
日蓮正宗でお題目を唱えていると、たくさんの精霊たちの気を峻別するようになってくる。
もともと人間の凡人にもいくらか精霊を見分ける能力が備わっていて、現代人とはいえ、その違いは芸術作品なんかでみなさんが楽しんでいるとおりである。
しかし日本人は無意識に獣の気を優先しているから、よほど注意しなければ、あまり幸福だとはいえない幸福に甘んじることになる。3種の神器は陰惨な気をもっていまだにほぼすべての日本人を苦しめている。キリスト教では人間の尊厳を守ろうとする反面、人間の弱さにあまりにも従いすぎる。銃乱射事件などにまで至る。
しかし聖なる精霊たちは、確かにこの現世に存在している。宇宙という無限の世界に満ちているのだ。
聖なる精霊は凡人は特に意識的に求めなければ感じることは難しい。キリストや釈迦みたいに超能力とか霊能力とかがずば抜けていなければ、ただの黒魔道士の魔術に陥るのがオチである。
かといって毎日ストラディバリの音を生で聴くようなことは大抵の人には叶わない。
ローマ教皇がキリストの気を持っているかといえば、だれにも証明できない。天動説と地動説を間違えていたくらいだから、ちょっと違うだろう。
毎日日本アルプスの山々に登れる人も少ない。
美しいというだけでも、かえって不幸が浮き立ってしまうことがあるから難しい。
そのあたりまで考えて、私はもっとも強くて澄みわたった精霊を意識的に選ぶことにした。
そして邪さや害のある精霊たちとの付き合い方や対処方法を直感的に理解するようになってきたのではないかと感じている。
悪鬼外道の類いは精霊を使ってわれわれを操ることに長けている。テレビジョンに洗脳されている現代人が多く、自覚がない人が増えすぎた。
われわれ凡人が精霊に操られるのではなく、精霊を使いこなす側にならなければ、一見幸せなようで不幸です。
他ならぬ自分自身の気が油断すれば、または意識しなければ汚れてしまう。反対に汚れないようにと過敏になって弱くなることも避けなければ不幸な弱い美しさに苦しんで終わる。
自分の内面から完全なる精霊を涌出させる秘策が幸福のためには必要です。
もともとの日蓮正宗が伝えてきた精霊は大石寺に健在なので、日蓮正宗は堕落している僧侶だけではないということが体感できます。
驚きの発見だったが、日蓮が直接日興に託した根本の本尊、大御本尊がもっているあまりに強く澄みわたった気こそ人類が出会うべき驚異の仏という精霊だった。
揺るぎない人類最高の精霊と清浄の気に出会えた幸福はなにものにも代えがたい。
自然界のごく一場面とか、バイオリンのイタリアンオールドの一台一台とか、国立博物館の有名な日本刀とか、冬の満天の星空とか、コンサートホールのとある演奏とか、質の高い気に感動することは何度もあったが、それらの和ではなく積という感じである。われわれが見えないところをハッブル宇宙望遠鏡が克明に映し出して宇宙の途方もない全体像を想像したり、何気ない朝起きた時に感じる希望を思い出したり、それらをすべて足していっても、それだけでもすばらしいが、それらの積をいとも簡単に自分の心に造り出すことができたら、それは人類史の超絶的発見として評価されてもよいと思うのですが、まだこのことは広く知られていないのです。
限定的有限性の精霊と宇宙的無限性の精霊という対比をすると、それはもはや精霊の範疇を超えているのかも知れません。しかし仏は常にわれわれとともにある。一個一個の生命の内側に確かに仏という最高の精霊は存在しています。
もどかしい感じがするのですが、一般的にいうお題目なんてありふれたそれほどでもない感動です。
たくさんの宗教で多くの日本人はお題目に満足して、本当の感動には無縁です。
クラシック音楽の一流の演奏が霞む。ありふれた感動を否定はしません。私も楽しみます。
それらを遥かに超える強く澄みわたった精霊が、大石寺の大御本尊です。人間に生まれてきたらこの感動を体験すべきだというあらゆる感動を超越している深い感動が静かな佇まいのなかに満ち溢れています。
日蓮正宗の朝晩の勤行は義務ではありません。大御本尊と猊下との全宇宙との対面であり感動の無限の再現です。大石寺を知らない人たちは、いわゆるノルマに陥り、そこには本当の深い感動はなく、結局苦しみだけになります。地位、名声、お金、食べ物、旅行などで目先をごまかし続けて墓場にいたる裕福で不幸な人生に自覚もないまま、高額で小さな私利私欲に終わる人生になってしまいます。小さな精霊たちでは、いくら費やしても小さな幸福しか感じられていないのです。
大いなる大宇宙という精霊の根源たる仏を知らないということは、本当にもったいなく、せっかく人間に生まれてきたのに、なんて馬鹿な堂々巡りの人生に満足しているのだろうか?とエリートをふくむ地球上のみなさんを見ていて感じます。
立身出世や資産はいくばくか幸福になりますが、その幸福は浅はかな動物的幸福にすぎません。現代はそのことが非常にわかりにくくなっています。われわれの幸福観が生活コミュニティに与えられた固定観念にすぎない小さなものであることにはなかなか気が付けないようです。
資産家たちが結局地球上の問題に関わろうとする姿を見ていても、人間は根本的に環境の均衡、調和を求め、平和と幸福で連帯することを求めているのは解りますが、本当に小さな一歩にひたすら苦労するだけに終わります。よい精霊を選んでいるつもりでも、それが小さな精霊であれば、それだけの力しか発揮できません。大きな幸福を求めるなら、大いなる精霊を探し求めて選んでいかなければ、先祖から受け継いだこの命と人生がとてももったいないことになっています。
幸福観というのは論より証拠です。主観の範疇であることは確かですが、まったく知らなければ選びようがありません。
拙い文章ですが、ご紹介がてら。

伝統宗教にも気を付けよう (人は宗教には救われない)

私はブログでたびたび新興宗教の問題を取り上げて、なぜ新興宗教でみなさんが不幸になっていくのか、釈迦や日蓮の言葉を用いて論証してきた。

しかし、実は伝統宗教ならなんでも正しいもので、本当に安心できるものかどうか?実はそこに重大な問題がたくさん隠されていることも確かなので、そのあたりをこの記事では取り上げていきたい。

神社神道については、理性がなく、合理的判断ができないところを指摘したことがあるが、少なくとも個人の金銭的利益や国内におけるメンツというのは保たれる人もいる。ではなぜ間違っているのかと言えば、シンプルに国益を無視して富裕層個人の利益を追求しすぎることがあまりにも多いからであり、戦争に負け、貿易戦争に負け、国際競争に負け、経済力の割にスポーツの実力もあまりに弱い。芸術分野も二級止まりが大半であり、まるでまぐれのようにごくわずかな人たちが国際コンクールで優勝するものの、彼らはみんな海外のレベルの高さに日本をあとにする。まれな優勝者で日本だけに住んでいる人がほぼいない。金持ちが高い教育費を払って代々繁栄しようとするあまり、国として高等教育を推奨できず、みんな貧困層止まりにしておくために奨学金貸付制度で元気のいい若者をいびりあげているという事実がある。これでは、日本がバナナ共和国になっても不思議はない。京大の藤井教授の言葉を借りれば日本人はサルである。

つまるところ日本国内で貧乏人や不幸な人たちにマウントすることが至上命題の彼らは日本の国勢が衰退することに対して不感症になっているのである。株さえ高ければ、雨が降ろうが槍が降ろうが、貧乏人が首をくくろうが、まるで知ったことではない。

次に伝統仏教であるが、これは教えの面からの問題がかなり大きい。

経営から言えば、僧侶の位の高い方々は株さえ高ければよいのが神道と同じであるから、どちらかと言えば集金業務に忙しい。位の高い僧侶は、収入のよい寺院経営に配属されるから、あとは営業だけしていればよいというシステムがある。

これらの経済的な面はさておいて、教義、教えがもっとも重要な落とし穴になっている。

以前目指すものの違いとして記事にしたが、理想が違う。それはつまり釈迦の教えの通りなら理想であり、釈迦の教えと違えばディストピアを目指しているということであるが、これはほとんど知られていない。

判断基準はみんなでみんなが幸せになっていくか、選別排除したり差別的取扱いが行われがちかどうか、というのが現代的には理解しやすい。

日蓮宗はとりあげず置いておいて、真言宗、浄土宗、禅宗律宗が代表的なのだが、これらはまず釈迦の教えに背いたことで共通している。真言宗空海密教を日本に伝えたものだから基本的には伝統仏教ではない。日本の歴史の中ではいちおう伝統仏教であるが、たんなる密教である。浄土宗も親鸞らが有名ではあるが、釈迦の教えのほんの一部分を切り取った教えで不完全である。親鸞らは明らかに凡人男性だけが極楽浄土に行けるものと言っているし、そもそも浄土宗は阿弥陀極楽一辺倒で釈迦の教え全体を理解しているとはとうてい言えない。禅宗律宗も大差ないが、釈迦の教えの部分を勝手に解釈してよじ曲げて教義をあとから作ったものであり、どちらかと言えばこれらの仏教もどきは政治目的のために使われた教えである。開祖の名声のための宗派であることは間違いない。密教はその字のごとく内密に闇に葬るのが非常に得意であるし、浄土宗は浄土のためには面倒臭い女や障害者や学者なんていらないという考えで政治を私利私欲のために使いやすくし、禅宗キリスト教でも使われるほど冷静に心を鎮めて間違った政治に隷属せよと教え、律宗は条例細則だけで国民をがんじがらめにして統制するためのものとして重宝されてきたのである。

現代の市民社会の時代にあって、もはや時代錯誤の誹りを免れない性質の伝統仏教であることが実際に多々ある。そこが、つまり経営的な寺院というものをさらに金儲けに没頭させることになる。金がなければ檀信徒はつとまりませんよということである。たとえば、女性差別が著しいが可哀そうに思った親は、女子を高等教育につける必要があり、習い事をさせる必要が増すということである。もし差別がなければ、別に高卒や専門学校卒でも幸せに生きていけるはずであるが、教義として女性差別があるものだから、やたらと教育費や嫁入り道具が高価なものが必要になるわけである。しかも女性の檀信徒は女性というだけで肩身が狭いから、金銭のご供養やお布施などを必要以上にしなければならないという強迫観念にとらわれる。いちいち成仏したかどうかなんて関係ないから、ただ戒名だ、供養だ、葬儀だと言って取れるだけ取ろうとなる。

これが、一般の伝統仏教の姿であり、二十年くらい前に、葬式仏教に堕落した伝統仏教についての本がバカ売れしたこともある。

しかし面白いのは神道と同じく富裕層にとっては、あまり気にならないらしいことである。葬儀やらないわけにいかないし一応やっとくものだという程度の感覚である。

富裕層の定義はいくつもあるが、純金融資産が1億円以上の世帯は、2019年で132万7000世帯しかないそうで、一億円というのは案外すぐになくなるから本当は富裕層とは言い難いが、位の高い僧侶が狙っているのは彼ら富裕層であり、それ以外の勤労世帯というのはあまり金にならないとしか思っていないので、それほど僧侶をありがたがらなくてもよいのかなと思う。ざっと二百万人くらいがよいお客さんになるが、実際に釈迦の遺したお経に反目していて、とても成仏なんてできない宗派だらけである。

ここまで書くと、なんだ日蓮宗の我田引水じゃないかという声が聞こえてきそうだが、私は日蓮宗日蓮正宗の僧侶でないため、一円の得にもならない話であることをまず断っておきたいし、日蓮正宗に対してすらシビアな見方をしている。

日蓮宗がそもそも釈迦の教えに反していることは、日蓮が直接指摘している。日蓮宗では日蓮の師匠が釈迦であると明言し、日蓮本人は釈迦が妙法蓮華経の中で上行菩薩を師匠にしてきたとの記述があることを指摘してそれが間違いであることを示した。日蓮は久遠の本仏であり、宇宙全体のあらゆるすべての仏菩薩の師匠にあたり、釈子日蓮などの記述で釈迦の下につくのはへりくだった便宜的な表現としてのみである。

そもそも日蓮宗の成り立ちが、日蓮の遺言に反したことであり、日蓮宗はどこから見てもたんなるお題目宗である。日蓮はお題目だけ唱えればよいとは言わなかった。

もうひとつの重大な指標が、最初に取り上げた神社神道を拝んではならないという教えである。これは日蓮の直弟子日興が五人所破抄の中で明記している重大事である。日蓮本人も諌暁八幡抄など神社に対する論破の書物を著して現在も直筆のものが遺っている。しかもご丁寧に日蓮宗寺院の内部には神社を祀っているから日蓮正宗初心者にとっては要注意事項なのだ。

さらに日蓮宗は本尊をきちんと区別分類できない。新興宗教創価学会の者が思い込んでいるように、日蓮が書いた本尊ならみんな同じだと言う見方考え方なのであるが、日蓮本人も日興も代々の日蓮正宗法主も、明確に中心となる根本の本尊があることを実物と文献として遺してある。この違いは残念ながら実際に拝まないと単なる考古学、古典文献による違いでしか判別できない。(こじつければ大御本尊は今週のお題の新生活が捗る逸品である。ただし人生の新生活なので4月でなくてもよいが。)

これらは教えの違いと政治的な役割の違いであって、逆に言えば、富裕層や香典代に困らない収入があれば、とりたてて問題がわかりにくいという面もある。

しかし親族や家族や地域の全員が幸福追求をするための前提としての教えの違いはほんとうは深刻で重大な問題であると思う。いまどき女性差別とか児童虐待とか障害者差別とかありえない。

なんだ日蓮正宗の独り勝ちか?あまり面白くないなという方がおられるだろう。

日蓮正宗のあげあしをとるつもりもないが、僧俗ともに教えが形骸化してきていることが日蓮に対する重大な師敵対ではなかろうかと私は考えている。法主はもっとも収入が安定して高額な代表格であるから、たしかにキレイごととして檀信徒全員を尊重し日蓮の教え通りのことが言えるのだが、末寺になると少し実際上話が変わってくる。日蓮の教えが棄損されているのではないかという事例が多々ある。経営上、銀行の信用創造上、なによりも教義上、だれでも末寺から日蓮正宗に入信することができるのであるが、五体満足で収入が安定している世帯しか檀信徒として生活することが難しいのである。ほかの伝統仏教と同じであるが、これは日蓮の教えの面からは大変な問題である。日蓮は知恵遅れを含むであろう愚者、愚人、女性、精神障害を含む根欠、前科者を含むであろう悪人、認められず不遇の貧乏である学者芸術家などをすべて救い、成仏させるという画期的な教えを釈尊の教えから解き明かした真の聖人である。馬鹿につける薬の発見者であり、女子供やかたわに勇気と希望を与え、癖の悪い聖職者を敬えない悪党たちに慈悲をかけた本物の仏である。

昨今、女性の自殺が増えたとか、非正規雇用は女性の率が圧倒的に高いとか、児童虐待認知件数がうなぎのぼりであるとか、非正規ですら雇用数が激減しているとか、変死者数が急増しているとか、つまり貧困層が拡大して御寺参りどころではなくなっている人たちが増えた。彼等が御寺へ行って法話を聴いたり先祖供養をしたり葬儀をしたりすることは極端に難しくなりつつあるが、口先では育成と言いながら、そんな人たちは信心ができないだろうと冷たく切り捨てるのが日蓮正宗僧俗であり、それ以前に教義の中だけでなく政治的にもあわせて切り捨てているのが伝統仏教各派なのである。

新興宗教と大差なく、たんなる票集めと金集めが優先する袈裟衣を来た悪徳商人闇政治家というのが伝統宗教の真実の姿なのである。

今回は長くなり過ぎたので日本の伝統宗教をおおまかに説明できたところで終わりにしたい。