FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

甘やかすか大切にするか? 大人の成長

日本だけに限らず子育てで子供を甘やかすか大切にするかという問題は普遍的で難しいところがある。

私は神道民や庶民の大半からは甘やかされたのだと言われることがあるが、それはほとんどが妬みからくるものだと熟知している。

そもそも人間は生まれる時にその後の教育や文化や宗教などの要素の大半が決まっていて、それはほぼ完全に本人が選べないものだ。

だからといって良いわけでもなく悪いわけでもない。

それをあの人は甘やかされて育ったという心は醜い妬みでしかない。

必要とされる食事や衣服や教育は小学校入学前まではほとんど家庭ごとに養育者ごとにコミュニティごとに異なる。

恵まれていた人も、真実選べなかったし、比較的恵まれていただけのことである。

だから有名大学や有名企業から人生がうまくいかない人がいて、一時期成功しても失敗する人がいて、完璧に見える人が大変な苦しみの中で死んでいくこともある。

当たり前だが、今いる環境で最善を尽くして、トライ&エラーの中で思索を重ねて次なる活路をひらこうとするのは誰しも同じだ。

どこを起点にしても、同じ努力と思索と計画性は必要で、本因妙とか久遠元初とか日蓮のお題目の悟りもたったそれだけのことである。

貧民窟も王宮も同じ人間がよりよく生きようとすること、努力と思索と計画性を持てばより良いのは同じ。

それが辺境だろうが、先進国だろうが、階級社会だろうが、恵まれていようが、困窮していようが、同じ。

甘やかすように見えるのは、その人たちが虐待を常識として教育されて信じ込んでいるが故だ。

実際は必要な健やかな発育や成長のための環境条件をあたりまえに整えているに過ぎない。

日本人のほとんどはそこがわからないから、厳しい環境や条件を推奨して結果世界では劣ることになる。

生命を大切に育めば発育は最大化されて世界で通用する人材になっていく。

逆境を超えて成長できる人間はほとんどいない。

逆境から逃げるというよりも逆境を忌避して適応しやすく成長できる場所へ移動することが死活問題となる。

日本人や階級社会では親が提供する環境がほとんどすべてなので、逃げることは難しく危険で、無理に何かに服従することで寿命を縮めてでも努力するように仕向けられている。これは転職や移籍などをも困難にする文化的障壁だ。

一方民主主義国では養育者より国が提供する環境のほうが比重が大きくて、逃げるとはまったく考えず環境の最適化を公費ですればよいと考えるし、自由に幸福に長寿が実現する。比較的転職や移籍などについてももちろん障壁が低い。国境を比較的自由に移動しやすい。海外旅行イベントではなくてよくある多国間移動である。

日本語だけに甘んじていると国境間移動が難しいから、自分を大切にするためには英語だけではなく若い間に世界で活用しやすいスペイン語や中国語などを習得しておくことが好ましい。

義務教育段階では本人がすべて決定できなくとも、自分を大切にすることで別の人生を築く人たちは世界中にいるわけだから、他人の恵まれた境遇を羨む必要はない。

私は妬まれても、そのことで他人から嫌われても意に介しない。

妬むレベルの人間として無視する。

勉強や習得は20代30代からでも十分に可能だから、各自が自分を大切にできるかどうかがより重要なのだ。50代で医師免許を取る人もいるから当たり前だ。

問題は自分を大切にする人が他人を大切にするとは限らないことだ。

恵まれた状況で自分を大切にし他人を大切にすることは比較的安易だ。

苦境で自分を大切にするのはまだ元気があれば可能だが他人を大切にすることは難しい。

苦境で自分すら大切にできずに他人を大切にすることはほぼ不可能だ。

その違いを意識してみると人間性という言葉がよくわかるはずだ。

食事や衛生観念や教育環境だけを教え整えても、人間として成長しなければありきたりな反社会的なエリートになる。

他人を尊重できなければ、いくら稼いでもどんなによい地位でも人間として問題があるということになる。

そういう場合には、稼ぎや地位ではなく甘やかされていた、または何かに甘んじていた人と言うことができる。

人間は甘い環境に置いてもほとんどの人は残虐にはならないし他人を見下すようにはならない。

人間をむしろ厳しい環境に置くからこそ残虐に他人を見下して排除できるようになる。

誰かを甘やかすことを問題にするより自分が何かに甘んじてはいないか?

人生を通して誰しもが自分に問いかけ続けるべきテーマである。

当たり前のことだが、テーマを死活問題として真剣に努力して思索して計画を立てなければならない。

みんなが自分を大切にできる社会へ。

他人を大切にできる自分であり続けられるように。

もちろん進化した人類は野蛮人に嫌われるが意に介する必要はない。

そしてこれは洋の東西を問わない。