東洋に日本人という民族がいて、二十年前くらいまえまでは経済的に繁栄して日本国も国民も豊かな国だった。
しかし風向きが変わった二十年前くらいになにがあったのかと言えば、自公政権が誕生して財務省の言いなりになる官邸に様変わりしたということである。
本来政権は政府案の間違いを政権が修正したり政府に民意を提案したりするのが役目であり、健全なる三権分立であるにもかかわらず、完全なる独裁政権に移行してきたのである。
民主主義の鉄則である少数意見の尊重がまったくなされなくなった。
マスコミは政権にご機嫌取りをして、民意を無視するようになった。
いつしか政府のご機嫌取りが日本人の真面目であるという風潮が蔓延するようになった。きちんとした科学的な意見は闇に葬られるようになり、国民生活が窮乏の一途をたどるようになる。
いつしか生活困窮者が増加し、障害者が減ったわけでもなく、年金はどんどん目減りしていく事態となった。
こうなっても政府の独裁がメッセージとして送る内容は変わらない。
自助共助で切り抜けよ。
社会保障予算は削りたいという日本人を削減する財務省の意向も変わらない。
どこから亡国の発想が生まれるのかと言えば、日本国政府が国教として採用している伊勢神宮の教え、神道の教えからである。
日本人は面白いことに、こまった時には死ねという教育をしている。
仕事ができない人間は生きている価値がないとか、社会保障を受けることは他人に迷惑をかけるから受けないようにとか、病院を受診することは無駄遣いにつながるから受診するなとか、ようするにこまったら手当を受けるのではなく自殺しなさいという教育が主流であり、そのある意味潔い考え方は神道の教えである。直接自害しろとは戦時中でないから滅多に言わないだけであり、婉曲な言い回しで自殺してくださいと困窮者に伝えたりそのように伝わることは日常茶飯事である。
神社は教会と違って不幸ごとを扱わず、寺まかせにすることが特徴である。
つまり楽に儲かることだけやって、厄介ごとには一切関わりたくない。
人の不幸ごと、失業とか倒産とか路上生活とか自殺とか変死というような難しい問題は汚れ仕事として手を出そうとはしないのである。
そしてなんと言うかと言えば、お幸せにと言う。
仕事がない、障害がある、会社をたたんだ、生き別れた、自殺変死した、路上生活者などに対して、お幸せにとはどういう意味であろうか?総理大臣が困ったら生活保護があるじゃないかと言っていたが、あれがいわゆるお幸せにである。
はたして日本人で生活保護が幸せだという人が一人でもいるのであろうか?
政治の世界では、すべて国民はという定義と法の下の平等という概念から、差別的取扱いは許されないことになっているが、実際はまったく差別がまかり通っている。
国教として神社だから、困窮者は相手にしたくないという精神が役所の隅々まで行き渡っており、でたらめを言ってあしらう専門職員しか配属しないようになっている。
基本的に困窮者を追い払うのが神社であり、いわゆる鬼は外福は内というやつで、困窮者は役所に来所しないでほしいという精神が徹頭徹尾見て取れる。
困窮者が神社を拝んでいるのであればと役所は遠慮して自殺してくれるという期待のもとに、お祓い担当職員が配置されるのが常識となっている。
自殺には自分の体力や気力をふくめた自腹を切るという損失行為もあり、正当に受けられる手当を受けられずに健康を害することを含む。あきらかに寿命が縮むからである。
今の日本人でそこまでまじめに自殺してくれる人もまだ相当数いて役所としては何かのはずみで死んでくれたらありがたいということである。
もし政府として本心で生活保護を受給してほしいと願っているのであれば、役所内に神棚を祀ったり、地方行政庁で水際防止作戦をやったりすることに対して、違憲違法判断と罰則が明確になるはずである。しかし政府の本心、本音としては伊勢神宮の教えのほうを尊重して国民の生命や財産など知ったことではないから、そんな改善に結びつくようなことは一切やらない。やろうともしない。
結論として、日本人は神社神道を支持、信仰する限りにおいて、こまったら自殺するのがまじめであり、美徳であり、日本人の鏡であるということになる。
釈迦や日蓮、キリストらの聖人たちは、深い悲しみにくれる困窮者たちに慈悲深く、愛情豊かに接したことが広く知られている。マザーテレサが尊敬されるのもよくわかる。ナイチンゲールも立派だ。ナチスから障害者を匿ったドイツベテルの教会も聖なる教えを守った。
そんな多種多様な信仰の教えによって、正当に生活保護を受給する人たちに対しても、日本の行政庁は見境なくお祓いを繰り返している。水際防止作戦である。
また、それ以前に親戚内からこまったやつは居宅に寄り付かないでほしいとお祓いをされた人も多い。困ってもいないのに金すら貸してやらないというケースも多い。
それら神道の教えによる自殺のすすめという一種異常な方策をたくさん確認しているNPOはマニュアルを作成している。この記事も大いにそのたぐいの書籍を参考にしている。
どんなに高額の納税をしても、なけなしのお金から高い消費税を支払っても、なにかあったらどこかで死んでくださいというのが日本政治と学者たちである。
首相が生活保護があるなんて言ったくらいでなにか前進したなんていう人もいるが、まったくそんな悪質な発言を信用する気にはならない。
日本人、神道には理性がない。つまり合理的判断ができない。
ただ厄介者が寄り付かないようにという前近代的飢餓時代の文化風習だけを頑なに守り続けて、国民や領土主権を守らない。
政府伊勢神宮のメッセージとしてこまった日本人は神社の教えに従って死ねということである。
困った時に死にたくなかったら、他人が困った時に助けてあげたかったら、日本人は神道以外の信仰を持つ必要性がある。
日本人や行政のまじめなんてものはそんなものである。
信仰のレベルがまったく違うので、それが政治のレベルになっているだけである。
経済統計を眺めてみても、日本人がまっとうに働けるようにみんなで幸福を追求したかったら、神社神道だけは選んではならず、自公政権だけは絶対にありえないということだ。
いや本人の選択による自殺や早死にと政府伊勢神宮はまったくなんの関係もないと言うのだからあきれた無責任さである。報道の福岡5歳児虐待死の件についても創価学会本部は個人のことはほぼ把握していないと回答している。