FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

神の弱点

神というのは単体で存在できない。人間や事物事象を通して人間が定義しているものだ。
人間は美醜をはっきり分けてみている。そこに不思議な美を発見した時に、その表現として神が存在すると感ずるのである。
つまり神は差別化の第一歩になっている。人間を差別化するのは愚かなことだと言っても、美醜ははっきりわかるもので、誰も否定できない。
特別に美しいものを差別化して定義し、それを永続的に保存したり、特別な人間を作って権威化したり、人類は工夫して政治体制を存続している。
今の時代はすでに全ての生命に喜びをもたらす時代に変わっている。昔みたいにただ奴隷を酷使して神の立場の人間だけが存続すればよいというものではない。
家畜やペットまで生命を尊ばれる。
はっきり醜い老人の人権もある。
いつのまにか差別が悪いことになった。
言ってしまえば差別というのは惰弱な心の快楽主義者がやることなのだ。
やはり差別という言葉がよくない。
区別のほうが落ち着く。
分別や区別は大切だが差別はよくない。
頭ではわかっても実際には好き嫌いで差別しがちなので結構難しい。
しかし人類が科学技術を手に入れ文明のなかに生活している以上は好き嫌いを乗り越えなければならない。我々人類には余力が生じているから、その余力で私利私欲や好き嫌いだけの差別をすることは許されない。野に暮らす野蛮な未開人というのはもはや地球上で探索されないだろうから、人類の基準としての平等意識が必須になりつつある。
神は美の中に逃げ込む惰弱な人間たちを望まない。
そしてむしろ仏教的な芸術、つまり全員参加型地域の構築という社会観が今や求められるようになった。
アジアには神も仏も歴史上存在しているし、今も建築などが多くのこっている。
大事なのは文化的遺産なのだと最近思う。
建物や遺物というのはその形式をあらわすに過ぎない。それも大事だが、実際になにをどうとらえてどう考えてきたのかという文化的遺産は書籍としきたりのなかに遺されている。
科学が未発達だった時代の悲劇の記録も含めて、全員参加型地域の構築に有益であった仏教文化を見直す時代がやってきている。
日蓮正宗の総本山で御僧侶方が隊列を組んで本尊の御前に行進する姿を見た時、私は自分の遺伝子がアジアの遺伝子なのだと悟って感動した。享楽に耽るだけの悪徳僧侶は別にして、きちんと修行している僧侶の文化、読経はほんとうに清々しく美しいものであった。すべての生命を貴ぶ仏というものを体感できて久遠という言葉を知り、大変感動した。