人を殺しても正しいという理論と感覚を作り出して、一般人を戦闘させて殺し合いさせるのは、宗教だ。
大正大学比較文化専門の論を読んでも理解や解釈はやはり同じものがあった。
殺人は悪いから処罰するが、戦争なら正義。
仏教でも僧侶や一般信徒は兵士になって殺戮に協力した。
これだけでも悪い。
それが悪いのはなぜかと言えば、教会寺院の保身と経営と政治力のため、つまり私利私欲だから。
聖人は聖人であって、僧侶神官聖職者たちは聖人ではない。
戦争は組織でやるから、宗教で大衆をまとめて洗脳するかマスコミを使うかで、現代では国ごとにその手法が違うものの、わかりやすいのは平穏な生活を害している平時の有害性である。
もちろん共産主義とか社会主義とかの無宗教に見えるものにも宗教性が潜んでいて、国を拝ませるという別面の国家主義もひとつの宗教だ。
統一教会問題は国家主義のために宗教が貢献している構造になっているところがポイントで、神道の下部組織としての宗教で、国全体の問題としては国家主義である。
やはり国家としてなら死刑や虐殺ができるという考え方なのが中国北朝鮮ポル・ポト等とほぼ同じだ。
政治の問題は宗教からだし、戦争も宗教が後押しする。
正邪と凡聖は教会寺院から弱者たちを排除する理論で、家庭では衛生的かどうかでも分別される。
都合と怠惰で排除対象を選別する暴君が宗教家、家長、権力で、排除したらあとはすべてがカモか敵になる。
NATOやロシアもそれだけの私利私欲に過ぎない。
聖人なら排除衝突しなくても智恵があるから戦争はやらないが、凡人が教皇や大司教なら戦争させるだろう。
ポイントは戦争以前に宗教家は人を追い払って死なせても平気であること。
聖人がいかに素晴らしくても、宗教は悪い。
教えがいかに正しくても、宗教は悪い。
宗教が悪いのは、国家主義体制のための洗脳のための組織だからこそである。
国家主義は階級世界観(弱肉強食)でもあり、宗教も階級最優先に変容する。
宗教こそ人間を不幸にしている人類のガン細胞。
心の平和は大切だけれども、政治的な間違いを大きくするべきではなく、そのことでかえって心の平和を害しているのだ。
アジアンはまた拝金宗が遺伝的共通項で基本的にどの宗教も拝金宗として要注意だ。
文化教養として学ぶ段階までの生活習慣・生活態度にとどめておくのが賢明だろう。