東京高裁判決で過去に住所や本籍があった人のものも公表できないことになったそうだ。
住所は転勤族や事情で誰でもあり得るから、果たして過去の住所を隠すのはかえって不審でしかない。
戦前のデータは公的記録としては保存しておいてほしい。
原告は差別されない権利を認めてもらったと喜んでいるが、わたしは糠喜びだと思う。
高位良家などの純粋な日本人と区別されない同じ日本人として誰もが認知するわけではない。
わたしの体験では、部落の中であれ、都市部であれ、その出身者たちにある独特の文化や話法が歴然としているため、区別する必要があったしこれからもある。
挨拶も会話もなにも成立しないからだ。
日本国領土内に出生した日本人でありながら、文化風俗がまったく異なることを無意識にさらしている。
民俗学、話法、方言、髪形や服装などいくつもの要素で、完全に見分けがつく。
問題は、その違いではなくて、いかにうまくやっていけるか、いかに会話を成立させうるか、その知恵であろうが、その困難さは極めて深刻な状況にある。
つまり、部落出身者かどうかを隠すこともできないし、判明もしくはさらしてもまず不協和音しかない現実がある。
四苦八苦して最大限の努力で彼らとうまくやろうとしたが、すべては真逆に作用することを知る。
差別されない権利という美辞麗句の陰で、出身者たちがどれだけの違法不当な権利侵害をやっているのか戦慄の走る事情があることにはまったく触れていない。
6月29日アメリカ連邦最高裁では大学の選考に人種的配慮するシステムが違憲だとされ、そもそも配慮による権利侵害の問題を克服できない状況がある。
憲法の国民の平等が守られない。
もうひとつは、裁判所は個別に差別を禁止したわけではなく、労働者として使えるものを使わなければならない国情からの判断が考えられる。
つまり低賃金不安定労働を標準化するために、外国人労働者と並ぶ労働力供給源として利用する魂胆である。
安倍政権下、かつての日本では、考えられない労働環境になり、不安定化していつ社員が倒れても構わない雇用のしかたをあたりまえにしていく世論形成上も出身者を受け入れさせるほうが好都合なのだろう。
日本国民全体の生活水準を押し下げる効果が期待されている。
憲法25条が破壊されていく。
差別は個人や企業の権利であり、政府や法律で禁止を強制できる範囲を適正化する必要がある。
部落問題だけではなく、国民ひとりひとりの個人の尊厳、自由権などの調整はこの国ではさっぱりうまくいっていない。
政府筆頭に各方面の人権状況を改善する必要性を理解できず、やる気のある議員を懲罰にかけようとするなど、目に余る醜態を公共放送でもさらして、知識人も文化人もまったく知らぬ存ぜぬ。
訴訟は一定の理解としてでしかない。
日本人だけが差別のない立派な人種国民であるはずもない。
人間社会にあっては禁止したとて差別は永遠不滅である。
人類全部をクローン人間にでもしない限りおぞましい差別に満ち溢れているものだ。
まともな政治家がいれば投票し、良心的弁護士がいれば相談するくらいしか方法がない。
みんなわざわざトラブルに関わりたくない。
押し寄せ続ける波との対話を延々とやるしかないのだ。