文化教養に対する盲信はとても危険なもの。
学問や科学技術ももちろん殺戮に用いられたり悪政に利用されたりして危険だ。
しかしおそらく一番危険なのは、文化だ。
教養や慣習がそのすぐそばにあり、憲法25条に文化的な生活とあるので、無条件に肯定しがちだからである。
あまりにも日常身の回りのものを疑うことはなく、共同体の外に関心はそれほどないから比較もしない。
戦争や悪政に学問や科学技術を悪用する文化と言われても、にわかにはなんだかわからない。
自分の家庭生活との連関も見えない。
文化と近いものに、宗教と衛生観念というのが根深い。
なんでもありで乱れすぎて損をするのは当人だから、根深くても否定できない慣習である。
今もって殺害処分で安心を獲ようとする文化は障がい者差別として必ず露顕する。
文化的に正しいのは、地域や共同体としての名残でしかない。衛生上正しいという主張も同じことだし、宗教上正しいのも同じ。
母体保護の名目で障がい者を殺処分。
まず身近なところから排除し殺害することを衛生的だと信じているものを再考しなければならない。
中国で断種手術、ヒトラーの指示で障がい者安楽死、神道の洗脳で障がい者拉致監禁という類いは文化の異常性そのものだ。
水や空気のように挨拶のように暴言。
先日の元女性自衛隊員がコミュニケーションをとるようにセクハラという話と同じだ。
人間がなぜ間違いを当たり前のように犯し、それを問題だと自覚できないのか。
いや背徳感に快感をおぼえる生き物に歯止めはないのか?
作家役者の筒井康隆は人間の快感の最高は殺人だと言う。
戦争遂行能力こそ主権であり人間の特権と勲章だという価値観が人類に残遺しているのだから、自衛隊員軍人たるものセクハラにレイプの遂行能力こそ誉れなのである。
日本人大衆が歌舞伎やクラシックコンサートに脚を向けないのは、政府官僚になにをされるかわからないという感覚、今までもこれからも軍事のため富豪のために犠牲にされるのは不快だという価値判断があり、現代もまだ手榴弾自殺のような意味不明な増税を重ねられるからだろう。
そういう虐待虐殺文化を楽しく正当化している歌舞伎やクラシック音楽はかなり寒々しい。
それなりの事例があり、悲惨や不幸をなくすことは十分に可能なのだが、インド中国ロシア北朝鮮韓国日本などの文化的におかしな定着は官僚や議員すら滅茶苦茶な感覚で、本気で本腰でやらなければ改善できない。
東ユーラシアは冷酷非情な悪性文化地域としてまず自覚するべきだ。
自国内と隣国間で改善のための具体的プログラムを策定実行する人類的責務を負っている。
国学などを信奉している馬や鹿には難しい。
古代の残虐な発祥文化段階に執着してはならない。
大衆の低レベルを見下す傲慢さに安住するのは人類的に見苦しい。
日本国を美しい進化した建設的文化の国にしていくための精進こそエリートが目覚めるべき使命である。
戦争しなくても自己の内面の負を破壊すれば日本はよくなる。
まず政治家が心を入れかえなければならない。
責任感がそもそも稀薄というよりまったくない。