日常会話で知らないと言う場合に、用法が10種類あるという記事があって面白く感じたが、行き違いや誤解もかなりある言葉で時に深刻な問題に至る。
我々は相互の事情を知らないからこそスムーズに生きている。
すれ違う通行人や次々に訪れる客の事情をなにからなにまで知らないからこそ都合よく生活している。
両面あって、幸せになっても不幸になっても知らない。
できるだけお幸せにという方向くらいは持っているものの、主体者の失敗の責任まではとれない。
総じて日本人はできるだけ失敗してくれたら犠牲になってくれたら儲かるという逆のベクトルの人の確率、ケースの確率が高いと思う。積極的に他人の不幸で蜜の味を求める。
キリスト教のほうがストレートに知らないという感覚で、不幸は政治技術で必ず緩和させる。
概して致死性の高い知らないが日本人の特性であり、個人を尊重する知らないが欧米人の特長だろう。
その結果として、生活保護利用率が日本2割欧米8割という真逆の制度になっている。
人の事情をいちいち知らないのは大切な情報選択のための条件であり、統計や政治的問題から考えて対応するためには知らなければならない。
個人的には知らなくとも、すべての問題案件を把握できなくても、社会に生きる市民として連帯する。
連帯を拒否するのは欧米では重病と困窮と国粋ネオナチくらいだが、日本では自己責任という孤立化のためのキャンペーンでムードは険悪だ。
連帯を拒否することと弱者を殺すことは同じことだし、高齢障がい妊産婦未成年被害者患者たちを孤立させるのはインド中国ロシアを中心とする虐殺の文化だ。
難民認定をほとんどしない日本政府は連帯ではなく軍事同盟と経済連携しか理解していない。
だからこそ人権分野は知らないと言えるし、福祉介護医療で惨たらしい現状にきちんと予算を配分しない。
政府は国民のことなど知らないと宣言し続けている。
まともな人間ならそこに疑問をもつ。
市民という単語の意味が日本人たちにはまだ理解されていない。
日本人の知らないは通行人に殺されても知らないという感覚で、どこからそんな感覚がきているのかと思ったら、法律家が法律上責任の有無を考える上で知らないと主張するためである。
関係性を無関係と定義すれば無責任で済ませられ、もともとユダヤ発の法律で戦争による犯罪を正当化した。
そこに依拠してこそ政府は国民のことなど知らないと主張宣言できるというわけだ。
国民が死んでも国民を殺しても法律上の直接的殺人致死行為が認められなければ、無責任であり、つまりバレなければホロコーストができる。
ホロコーストの記録を消し非公開にすればなんでもできる。
立民の議員が厚労省に医療保護入院の手続き記録を把握しているかどうか質問したところ自治体でもわからないとの回答。
強制隔離の理由も手続きもまっとうに把握していない。
これも精神障がい者に対する知らないであり、公正や正義に対する知らないである。
ましてや連帯などなく排除さえすればよい。
第二次大戦が終わった時に、日本の各裁判所では記録書類を大量に破棄焼却した。
治安維持法違反の記録が公務員による犯罪の証拠になるからである。
少し考えるとわかるのだが、秋葉原連続殺傷事件の加害者だけが裁かれるのは公正ではない。
あの類いの事件は国が民の生命も人権も知らないと宣言していることに起因している。通り魔は政府推奨である。
市民感覚から言えば、社会連帯で相互扶助のための盤石な政治体制を構築するべきであり、その安心感ができれば通り魔などほぼ起こらない。
日本人が熟考すべきテーマだ。
神道を棄てるか扶助を棄てるか。
生命財産を守るか国家神道を守るか。
不幸困窮に支援するか通り魔を推奨するか。
案外シンプルなので理知的に判断すればよい。
日本人の大半はイカれている。
アメリカは非公開記録を数十年後に公開する。最近またニュースになっていたが、重要公文書をわずか5年とか10年とかで非公開のまま廃棄にする日本政府の異常性にまず日本人が気が付くべきだろう。
あまりに程度が低い途上国レベルの議員たちと官僚をわたしは知らない。
存じ上げない。