家族の中でも孤立する人はどこにでもいる。
順調さと不調さの狭間でバランスをとって奮闘努力すると、がんばったぶんだけ世界が見えなくなる。
気を抜きすぎると世界を観すぎて努力が難しくなる。
そこはバランスやメリハリがいる。
しかし不調さが、社会的なものから来るものは、もはや努力や工夫では解消されない。
仕事がうまくいかないとか、地位や階級が低くて所属する共同体がないとか、日常生活でいつも苦痛を感じるとか、そういう人間的な辛さを重ねていくと、次第に心理的な問題は精神的な問題になる。
人生を楽しむためには、公正なルールとフェアプレーが前提だが、日本ではすでにそうはなっていない。
もともと、特権階級を設定して、その他一般奴隷の社会は、日本国憲法やキリスト教文明開化の中で一時的に公平に努力が実ったが、再び旧時代に戻った。
かつては努力すれば60歳まで安定して勤めて年金で楽に老後を送ることができた。
自民公明民主維新など主要政党が国民に背信的な権利侵害立法をコンスタントにやってきた結果、まず新生児の4人に一人が身体的に不健康と言われるようになり、児童虐待が頻発し、不適切指導から派生するイジメは学校のスタンダードとして定着し、不登校や自殺が増加している。
かろうじて社会人になれたとしても、正社員ですらぎりぎりで定年などなきに等しく、ごくごく一部でなければ、35歳まで勤めることができれば幸運で、すでに50歳まで安定しているほうが少なくなったように見える。
カルトが主流になれば間引きや教育放棄が横行して労働人口は減り、不安定雇用と貧困や社会崩壊で稼動年数はどうしても減少する。
そんななかで自己肯定感を高めようにも、生活苦や社会的地位からそれほど社会参加や交際に積極的になる人は減少する。
一般的な趣味をみんなで楽しむことは、もはや不可能であり、一般的趣味は特権階級のための商業化された世界に限定される。
政治や宗教に所属することも、よほど安定した高収入でしかできない。日本の場合は特にカルトや危険思想でしか成立しない。
弱者や困窮者向けのコミュニティを好む人なんて誰もいない。
レスペクトされていないと感じると屈辱を感じるのが人間だ。
しばしば事件や犯人予備軍に対して、社会に居場所作りをしようと学者たちは言うのだが、社会から追いやる、排除するために、ふきだまりを設定して強制隔離する日本文化を変える必要がある。
政治がエリート以外を追い払う仕組みになっているのだから、日本人の意識や文化として困窮者を追い払うのがまじめさだと思い込む。
失職や逮捕や離別を終わりと洗脳してきている。
神道が愚かで未開なのは、明らかであり、神道民にとっては居場所を追い払うのが公務であり常識でありあまりにも知恵がない。
経費をかけずに共通の価値観で連帯する叡智がなぜかダサくキリスト教の専売特許だとか不純で不正だとかいう批判にさらされる。
どこのだれであれ人間を孤立させる行為が一般的精神保健にマイナスなのがわからない人が多い。
個人主義と排除虐殺主義が一致しないように人間を孤立させないように配慮する必要がある。
居場所作りという排除は悪質な偽善的政治である。
まずはうまくいっていない人間を作らないように政治経済を変え、うまくいっていない人間に社会心理的支援を個人的に意識して行動し招待し、居場所という名目のゴミ箱掃き溜めふきだまりに足を運んで救出救援活動を組織化していけるような人間性が必要だ。
例えばNGOボランティアが難民キャンプに入って支援するように、個々の世帯ごとへの具体的な困りごと相談がいる。
個人主義で個人の幸福追求が不可能な80%の国民に対して、莫大で膨大な予算をかけて、政治を変えることが先決だ。
政治においては、予算がないというのはウソである。
国民を孤立させてなんでも値上げさえすれば解決するという洗脳で、狙い通りに35歳まで酷使できればよいのだ。
特権階級さえ幸福に長生きすれば、大衆一般はどこで凶悪犯罪・通り魔事件をやっても、特権階級には当事者として無関係だ。
政治家にSPが必要な理由は、国民の不幸と法律上条例上の無関係だからこそで、恨まれるような権利侵害をしたり増税したりしているのを自覚しているためだ。
国民全体が連帯して自由で公正な市民生活を送っていれば、まともな政治ならSPは不要になる。
特権階級と国民で相互に不信感を持って、狭い日本の中で危険な国民層を急増させてきたのは、確信犯の主要政党だけではない。
当てつけがましく自由と正義を主張する共産党やれいわにも不完全さはある。
補完的な社会貢献活動では、誰の目にも如何ともし難いのだから、国民全体が共感する自由で公正な政治を実現する候補者を選ばなければならない。
特権階級は困窮者に直接支援することはない。
困窮者支援専門家に任せて、出資はコマーシャルやイメージアップのためお愛想程度にしかしない。
古今東西、政治としてきちんとしなければ、自発的に孤立した人たちを救済する特権階級は存在しない。
あまりにも例外的で聖人クラスだ。
偽善者たちの悪意ある政治工作とマスコミを信じないこと、おう惑されないことが重要だ。
この記事をまとめると、今、社会的心理的に孤立していないうまくいっている人間が、他人を見殺しにすることで、もっとも人類史において孤立しているという自覚をすべきだということだ。
直接支援、直接寄付を積極的にできる人たちは、人類史において広く深く連帯している。
うまくいかない人たちは、うまくいくかどうかではなく、人類史上の人間を見分けて連帯するべく努力する必要がある。
映画でも、そんなテーマでホロコーストを容認したドイツ人への問いかけがあった。
ユダヤ人や少数派でなければ、うまくいっていると困窮弱者への支援をはばかったドイツ人。
現代の日本人も置き換えるとまったく同じ状況にある。
家庭的日常的に困窮者を直接支援するように多数の国民を先導できたのは、カトリック教会の聖職者しかいなかったが、日本ではそれすらまっとうにない。
宗教はどれも同じなのではない。
まともな人間としてのありかたを常に問いかけ修正する勇敢な宗教と、日本的宗教つまりカルト宗教ではまったく異なる。
同じように政治で問いかけ修正する勇敢な政治家が必要なのだ。
個人の責任などまったくない。
人間は生まれながらに人間であり、政治宗教に操られ不遇に追いやられているだけだ。
その中での過ちは、加害者が聖人神仏を忘れ、希望を失ったからでしかないが、はたしてそれは順風満帆な人たちもまったく同じである。
事件を起こした犯人たちが、自分が人間としてこれ以上生きられないと感じる絶望感は、政治宗教に操られた社会経済的にうまくいっている無関心で残酷な一般国民と無関係ではない。
自分には良心があるからというのは、臆病ものの言い訳、被害者になる覚悟にしかならない。
それより大切なことは、具体的な支援行動である。
愚かな日本人が全員一度に開眼する日がいつか来るとよいのだが、愚かなだけに、キリスト教は悪いものだと弱者を排除虐殺する惰弱な小さい国のままである。
日本人は危険思想の神道を奉じているため厳重に警戒する必要があることを銘記しておく。
長い物には巻かれろというのは、権力に逆らわず、他人に無関心で見殺しを社会規範として尊重せよという意味だ。
戦争になる前に、すでに内戦あり虐殺あり児童調教あり、無差別殺傷あり。
順風満帆さの中に罪業の深さを顧みない者たちは、まさに未開人である。