わたしのことを知らない人たちは、バイオリンを弾いていた習っていたから没落貴族だという安易な発想で人の苦境を喜ぶ。
貴族とは華族・皇族と大名の当主だけであり、士族は士族である。
バイオリンを習うには、日本では家庭環境と本人の学ぶ心が必要であり、現代の先進国において身分階級はまったくと言ってよいほど無関係だ。
なにか贅沢な浮ついた遊びだという思い込みはまったくあたらない。
狭い了見、井の中の蛙にすぎない。
音楽文化は古代史からの成り立ちと意義と味わいのある趣味生活であり、各地域一時代においては王侯貴族が専有したり、特殊身分として厚遇または冷遇されたことがある。
一概に余裕で遊んでいるなどとは露ほども言えない例外的なもの。
世界中の宮廷は宮廷なりの危険で狂気の疲れる世界でしかなく、外から羨むほどのシロモノでもない。
音楽は楽器の音のよさだけではなく、人間心理に意図的に作用を及ぼすように作られ演じられる脚本演出のようなものとして楽しむために存する。
何も考えずに聴いて楽しむのは、入門者と達観者の特権であり、一般教養として親しく学ぶことが、人類史的な俯瞰と今この瞬間を調和させる文化行為だ。
文化行為のためには、特に資産や収入は必要ない。
武士は食わねど高楊枝というが、楊枝はどこにでもある安価なものだし、境地境涯を守り続けて死の瞬間までは貧困病苦であっても気丈であるという意味合いだ。
無教養でチャランポランな信心の輩には、想像もつかない神仏の魂を広大深遠に感じ取っている。
どんなに立派な本尊を拝んでも、神仏に逆らう未開人ユダヤ系日本人たちが成仏することは断じてない。
いくら献金し供養しても絶対に成仏はしない。
境地境涯の妙をまったくわからない人たちの題目や修業は、犬が吠え猫が鳴いているようなものだ。
昔、近所の九官鳥は、わたしの顔を見るといつも決まって南無妙法蓮華経と鳴いたものである。
もうひとつのポイントは、士族だけの目線ではなく、上級平民の庄屋名主やずる賢い商売人と職人の目線などを併せ持って一般論を考察している。
上流階級への浅はかな羨みや妬み嫉みほど人間的に軽蔑されるものはないことを、平民はみな知っておくとよい。
いわんやわたしが野蛮な途上国民日本人をうらやむことはない。
弱者ひとりひとりのために具体的支援ができる行動力ならば羨ましいというよりは微笑ましく喜ばしく感じる。
精神性を大切にする面を曲解して、身分階級闘争に持ち込むアホは、猛暑でおかしくなっているのだろう。