坂口安吾の文章で貞操貞節などに関するものが平易な印象だった。
スポーツ選手日本代表が五股をかけたとか、どの世界もいつの時代になってもかわりばえしない。
世界の王朝の歴史でも、酒池肉林なんてありふれ、今なら富豪は豪遊したからといって処罰されるわけでもない。
なんの変哲もない人間の営みか畜生の醜態か、とにかく騒ぎたい人たちがいる。
不思議なのは男性の側が悪いという論調ばかりで、貞節も貞操もない女性たちは無実無罪放免。その時点で男女平等はウソ。
坂口に言わせても貞操は無意味。
千人切りが武勇の価値観には経験人数は勲章だし、マニアには犯罪が自慢になる。
正誤を説教する意味があるのは各国の刑法とか法令くらいで、いくら言っても感覚的に理解できないから何度でも繰り返す。
風紀なんてあったものではない我が国では、性問題アレルギーや過敏症が頻発してむしろそのほうが病的だったりする。
そもそも大衆の生活感覚がおかしいから風紀が乱れているのか、風紀が乱れているから大衆の生活感覚がおかしいのか、暇な人たちは市民警察を買ってでる。
だから冤罪をおそれてみんなが接触を回避し、それが行き過ぎると性風俗が繁盛する日本の構造もあるのかもしれない。
カナダで大学生のカジュアルセックスの発生率を研究した学者がいて、きちんとデートを重ねてからのほうが望ましいわけだから、接触そのもの、交際そのものを危険視するのは行き過ぎだ。
なんらやましくもない交遊交際までも騒ぎ立てる餓鬼が小学生レベルのまま大人になってスキャンダルを捏造したり他人の確認不能なプライベートをしたり顔で流布する愚は別の被害をうむ。
恨みや報復の確信犯ならストーカーだ。
五股をかけられた四人とか、仕事を貰おうとして宛が外れたとか、玉の輿を狙って騙されたとか、恥も外聞もない馬鹿は病害虫レベルで誰も要らない。
自分の失敗や相手の優秀さは素直に受け止めて学習の機会ととらえるのがマナーと常識だ。
そもそも魂胆が汚い人間同士の交流なのか、片方が病んでいるのか、片方が優秀なのか、はた目にはよくわかるから、言えば言うほど惨めな土百姓みたいなオンナ全開は恥ずかしい。
もはや人権のレベルの話ではない。
ケースにより社会的地位を悪用しているという主張はもっともらしいが、弱者の立場を悪用しているのが明瞭では逆効果になる。
社会的地位の問題を持ち出すのも本質は違う別問題。
身分階級があって上から口止めをするというよりは、敢えて言わない暗黙のルールを双方で納得の上のことでなければ不和で破綻する。
その程度のことがわからない子供は危ないから相手にされない。
日蓮が言う「とわりを寄せたくもなき」、つまり暇な遊び人の女は家に入れたくない。経に「女人は地獄の使い」、つまり女性は楽しみよりも苦しみをもたらす生き物。
坂口安吾の文章は紀元前の釈迦の悟りに通じている。
唐突だが、わたしの個人的なそういう交際歴はまったく非公開だ。
他人からの誹謗はとんでもない誤解・錯誤・誇大妄想だらけの出鱈目で弁解する必要すらない。証拠を提供してくだされば勝訴しかない。
女難の相と何度も言われたが、もはやおじさんでも身体接触なしでも女難は頻発する。法華経の行者やキリシタンに対する弾圧に酷似しているから命懸けである。
わたしが孤独を愛している理由は様々だが、成仏した一定の人間にとって女人が不要になることは確かである。
釈迦と同様に場面によって交わることは問題ないが、性交の必要を感じない。
男性とみれば飢えた犬と決め付けるオツムの弱い日本人が多いところをみると、日本人は犬レベルである。
人類史と神と仏のレベルがわからない大衆と大衆的特権階級に哀れみを感じる。
馬鹿すぎて戦争が好きな大衆はスキャンダルが大好きなのだ。
軍国への流れは痴話好きと軌を一にしている。
面白がって他人の不幸と死を喜んでいる。
日顕上人が話していたように、釈迦を貶めようと、キリスト様を陥れようと、最初はあることないこと、いつのまにかないことないことをしゃべって罪業罪障を積む。
人を高い魂から落とそうとする高位の者を含む賎民たちは救いようのない生き物だ。
そもそも人間レベルなら女人は自分を大切にしていて愚かな失敗はしない。
人間に生まれても人間になれない数多の女人悪人がほとんどだが、それも日蓮の教えのとおりであり、キリストの教えにも通じる。 実際上宗教倫理も役に立っていない。
人間を馬鹿として警戒排除するより、人間を人間として接する礼節ある育成と寛容さこそが建設的だが、スキャンダル好き軍拡好きに聞く耳はなかろう。
そこにはすでに哀れみの限界がおのずと存する。
皇族有力者階級の不倫隠し子等々の歴史的事実はお昼の特番では報じられない。一昔前まではまじめに東証一部上場企業でも経費で愛人を囲うなんてお約束だった。総会屋とともに去ったヤクザな慣習である。
霊操も情操も題目も言葉と格好でしか知らずに、感情を抑えられないから開戦を想定しているのは上下万民古今東西同じなのである。
南無妙法蓮華経。
清らかにアーメン。
浅い祈りでは強い欲望を抑えられない。
みなさんが世界中でやってしまう致し方なさは祈りの浅さそのものなのだ。
浅はかに女性の権利を主張して抑制のなさをさらし、開戦論・再軍備軍拡の欲望を抑制できるはずがない。権利主張の乱用こそ戦乱である。
ミサの祈りの文句でも、仏教の教えでも身口意で、口は災いのもとだ。
人類の祈りの99%は浮ついたニセモノなのである。
かつてわたしの理想はアメリカの亡くなったホストマザーの結婚前だったから出会っていない。彼女は教会で先生をしていて拙い演奏の機会を二度設けてくれた。
1月の間、アメリカ人の美女たちと挨拶に抱擁と頬キスと握手をずいぶんしたが、みなさん爽やかで気持ちのよい笑顔だった。
欧米系の美女たちが教会から献身的な奉仕の心で意思を尊重されるのは当然であり、私利私欲や魂胆見え見えで見苦しい黄猿が喚くのは自身の姿が見えていないのだろう。
黄猿は性風俗を推奨している矛盾の自覚がないのか、他人のことはどうでもよいレベルであるのは間違いない。
せめてアジアで日本人くらいは進化してほしかったが、その兆しすらない。
人間には相手を人間とみる心があり、仏は相手の中の仏性を呼び顕し、キリストは相手の愛を呼び覚ますのだが、馬鹿には人間もキリストも仏も危険な攻撃対象にみえる。
全権のつもりで神をかたらう野蛮な日本人こそ危険な鬼畜の狂犬である根本のところが見えていない。
キリスト教会でバイオリンを弾くのは光栄で名誉なことだ。
汚泥の悪意と人間を見下している日本人の中で音楽するのは著しく困難である。
きちんとしたうまい演奏者でなければ合わせる意欲すらわかない。
どうしても余所行き。
音楽はさておき99%の日本人を人間化することはほぼほぼ不可能だが、世界中で人類の人間化の波は恒に起きている。
前ローマ法王のご冥福を祈る。