FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

義務教育の教諭に期待する場合 期待せざるをえない場合

学校の校則や指導に問題がありすぎる。

武蔵野音楽大学をでて福岡でピアノの先生をしていたある母親が数年前立ちあがった。

働きかけて福岡の糸島郡で次々と校則を廃止にしたそうだ。

そして今では全国のブラック校則(カルト校則)と問題指導に対して明確なアクションをとるれいわ新選組の政策委員(議員候補)をなさっている。

彼女のユーチューブ動画をいくつか拝聴していて、なるほどと合点がいくことがある。

三、四十年前の自分の担任や周囲の教諭を思い出しながら、少し考えてみた。

親族に教諭ネットワークもあって、プライベート情報もたくさんあった。

まずは党利党略と宗教宣伝を主張する場として、主張する相手として、教育現場と生徒保護者を見ているタイプの教諭。

教科書、学業成績そのものしか見ない教諭。

国家道徳や教育勅語の類いにしか興味のない教諭。

文科省(文部省)地方教育委員会に高評価を獲るべく媚びる教諭。

体罰問題、侮辱的暴言指導を繰り返す教諭。

きめ細やかに一人一人の表情を読み取る教諭。

個人的に人生がうまくいっていない教諭や変わり者の教諭。

つまり相談しながら、会話の機会をつくりながら、何かしらを求める相手としては見極めが必要だ。

義務教育程度の科目と専門教科の知識はさすがにそれほど必要なく充分だが、本当のところは、完全には程遠いから小中学校教諭なのであって、勉強の助言ですら全員にとっては全然あてにならない。

いかに楽しく勉学に取り組めるか、いかに楽しく将来へ成長するか、そこでやはり個人的家庭的な状況と差異をきちんと考慮の上助言できるほどの教諭はいない。

あたりまえだが教諭個人の成績が完璧でもそれはほとんど不可能だ。

公立学校の教諭は宗教家や思想家として教育に携わってはならないのだから、そこを生徒や保護者が敢えて刺激しないことが大切だ。

親は子供がかわいいから一応心配するのだが、教諭に直接悩みを打ち明けたり助言を求めたりするまでの距離になれば、それは教諭に越権行為をさせることになる。

教諭の全員がいつもいつもすべての生徒をかわいいとは思っていないし、個人的嗜好性と職務上の利害損得が常に発生しているから、個別の指導内容がそれほどよいものにはならないし、時には最悪の場合が生ずる。

予算人員都合から成績そのもののために個別の指導をする時間すら不十分で、意思疎通のための限られた連絡ツールを適切に活用するしかない。

日本の公立義務教育学校では、とてもとても適切な指導や広義の子育て支援はできていない。

生徒同士のいじめを放置し、親からの虐待を容認し、成績にすら興味がない。

子供という人格や尊厳に関心すらない。

個別の教諭個人の趣味嗜好や経験談で面白く興味を感じられそうなものを引き出すことができれば、かろうじて雰囲気良く1、2年を過ごすことができる。

生徒側の難題を解決するヒントは、世界中の活字や統計情報に求めるべきであり、そこから改善要望する必要性を判断して保護者として行動しなければ子どもの成長や生命を守ることはできない。

一見まじめそうで身近なようで、冷酷無情か下心満載な公務員ばかりで、しばしば油断も隙もない危険な敵ですらある。

善良な教諭は、障害児に配慮でき、健康や生活に配慮し、必要なら個別に時間をとる。

私立高校のように校則と戦う生徒がいなければ校則なんてどうでもよい。

うまく校則違反するコツをつかむことも大切な成長だ。

たいていの教諭はほんとうはすべての違反に関心がない。

病的な教諭の問題指導の証拠をとって、正式に通告および協議或いは提訴の手続きをとれる体制は真摯な保護者あってのものだ。

誤魔化しごまかしの連続で何事もなければよいが、期待する内容や程度によっては、かなり深刻で慎重に接触対応する必要がある。

教諭に限らず、日本人が日本人指導者に手放しで期待することはできない。

血も涙もない。

うまくいっているのではなく、関与せずどうでもよいか、関与して潰すかの2種類しかない。