幼稚園にはいる前のころは、スイミングスクールで毎回死ぬかと地獄の思いをしたことを思い出す。
確実にプールの水を飲まされる。
それを笑顔で見守る母親が鬼にしか見えなかった。
小学校のころは、よく川遊びをした。
政令指定都市の川遊びは少しだけ変わっていた。
大きな導水路のトンネルの暗闇を百メートル以上歩くと、川底に堆積した砂がまばらだ。しかしそこは最深、深さは大したことがないのでほとんど危険はなかった。
ふつうの小川はたいてい浅くて、ところどころが水流で深みになっている。
そのところどころを目で見て回避しながら川をずっと歩いていく。
回避できそうにないと見ると、一度川から上がって道を通り、再び川へおりて入る。
危なそうという判断は、知らないとかわからないとかいうものすべてに対してする。
多分という感覚は絶対に採用できない。
もし万が一危ないと感じたら回避する。
川底が見えないところは、それだけで足を踏み入れない。
高いビルから飛び降りるのと、なんだかわからない淵へ足を踏み入れるのは、完全に同じなのだ。
池や沼遊びがもってのほかというのと、川の淵、川底が見えない箇所を避けるのは同じで、死ぬことは最初からわかっているからだ。
深みで慌てないことも重要で、落ち着いて平泳ぎ立ち泳ぎが効果的だと習った。
今日検索しても出てこなかったが、かつて同じ小学校の別学年の生徒が水難事故で重症を負ったことがあったために、学校で教諭が指導したことがあった。
ザリガニ釣りや川遊びなどで夏の暑さを紛らわし、雑菌に強くなり健康的に過ごすのは良いが、大人が責任をもって注意事項を教え込む必要がある。
兄弟も祖父母などもとても重要だが、司令塔的保護者はみんなそれぞれ異なる。
子供の危機管理意識はミサイル警報・流行性伝染性疾患・性教育・防犯・虐待・いじめなどかなりデリケートなものが多くてついついいくつものウイークポイントが発生するものだ。
だから、本来は大人たちが積極的に世話を焼く必要は確実にあって、教師だけ親だけで注意喚起しても追い付かない。
水泳経験のある大人がふざけて川で泳ぐ何気ない感覚とはまったく違う危険性が多岐にわたる。
わからない淵は大人たちを含んだ日本の未来でもあり、みんながスマホ依存症の拝金主義で淵を判別できない今すでに目の前にある。
親がそばにいれば見ていれば安全なのではない。
大人たちが危険な淵がどこなのか見ていないから子供は安心して淵という地獄へ足を踏み入れる。
亡くなる子供はみんな大人たちを信頼していたのだ。
もっと子供に優しく丁寧に教えてあげるようにつとめる必要があるが、共働きを標準化してきたカルト政治の流れがその必要な教育をせき止めている。
みんなバラバラで自分勝手に世間体とカネに忙しくて、子供には構っていられない。
カルトは子供を囲い込んで情報遮断する。
注意すべきものの優先順位を考える必要がある。
世間体とカネを言い換えると世尊であり伝統宗教文化であり、主要政党の採用している社会規範だ。
家庭の時間、意思疎通、共通体験、科学文化性を大切に手作りを推奨すること。
それどころではないのは、政治の結果であり、それを推進したのが宗教だ。
遠くから見ていた人が語ったことで、目の前で溺れる少年を目にしながらそばで釣りを続けていた大人がいたそうだ。
注意すべきもの。
どこが淵なのか、なにがウイークポイントなのか、誰がウソの標識を立てているのか、どの道案内が使えないのか、どの教諭が生徒に手を出すのか、どの政治家が不正をしているのか?エトセトラ。