FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

許容されない「クソ野郎」?支持率アップのれいわは本当に正しいのか?

法律に無知なので誹謗や間違いがないように注意して書くつもりだが、関心のあるれいわの大石あきこ議員のツイットに地裁が人身攻撃だとして賠償命令判決を出したそうだ。

大石氏の論評批判は公益性も真実性もあるが「クソ野郎」はダメ。

おそらく常識的に、裁判官はそういう言葉を職場で公に使えない。

ならば国会議員を目指す立場の人間にも同程度の用語範囲は期待されるのではないか?

隠語や俗語表現は、公ではない言論私刑という意味合いをもって人身攻撃と判断しうると裁判官のイスからは見えやすいし場合によっては錯覚が生じやすい。

しかも刑法上性犯罪取扱ではない問題ある性行為という微妙な位置づけ色あいなのか。

その意義を踏まえて考える必要がある。

さらに男性の悲哀に対する同情的な見方があるとしても、男性を理解しているとも見え、かつ論評への正確な理解で女性の権利を理解していないとも言い切れない。

人身攻撃の対象が男性の場合にだけ配慮すればよいというわけではなかろうし、ツイッター上なら隠語俗語で糾弾できるとかできないとかいうツイッター裁判所法規則なるものはきいたことがないから配慮を前提とした自由だろう。

民事の心証主義の範疇ですべての裁判官に許容されないとまでは言えないが、男性の悲哀部分だけを切り取って攻撃していることも確かであり、かつ公共の場で晒している。

事案から言えば、男性器を切り取って弄り回して糞を付けたわけだから、悪質事案に対するものだとしても論評批判として好ましい美しい単語ではない。

強い女性がかよわい男性をカモにすることはしばしばあるが、それはなぜかほぼ問題にならない。研究把握の遅れは大きい。

一般論として、男性加害者だけを可罰する主義の偏向を補正する立場が公平なのか、女性加害者を情状酌量で見逃す差別的規範を温存するのか、国家ははたして性差への配慮をいかに公正に中立的立場で判断しうるか?というところを外せない。

謙虚に事件と向かい合うという意味において、そもそも人間が人間を裁くのも難しい。

何条をめぐって正義を証明しても、それが経緯状況から真逆の意義を証明していたりする。

完全勝訴という場合は偏向したことにもなる。

完全に正義という見方考え方は、真実部分的な正義だからこそ完全に正義なのである。

「クソ野郎」がどれほど正しい書き込みであれ、この世の半分は悲哀の弱い男性であり、権力財力に媚びへつらう女性は1割以上存在していて、同情的な人たちが被害女性を救うことはできない。

同情の正義、同情の政治活動、同情すらない蔑み、無視と虐待に満ち溢れていて、使命感あるよい仕事をしたい大石氏も手が回らない中で消耗される。

1番大切なことは被害に遭わないことで、次に被害を回復することだから、騒いで露出を増やすことがマスコミ業界希望者へのはなむけになるか、帰国を難しくするのか、正義の価値観からいえば日本は底無し沼にしか見えない。

自分が男性だからではなく、意図的かどうか別にして個人攻撃を目的にしたと見うる行いより、個人を開眼させる行いのほうが前向きな正義だと思う。

当事者の男女両者ともに開眼させるためには、「クソ野郎」という単語は向いていない。

裁判はその範疇での判断にすぎないものをすべてだというところの不完全で一時的な正義だ。

すぐに忘れられるし、ありふれた案件であり、再発防止に資する教育のほうがよほど公益性が高いように見える。

今目の前に全力なのは素晴らしいし美しいことだが、かえって大衆オンナにできることはかよわい男性を血祭りにあげることくらいだと一部特権階級に解釈され陰で揶揄されるに過ぎない。

刑事司法への問いかけとしては門前払いだし、民事に預けるべき案件ならばまさに無駄なメンツ主義か正義をふりかざす悪党かと疑念を生ずる多数がいるだろう。

男性に対する理解を同時進行でやらないと、実態と乖離した個人攻撃に邁進することも出てくる。

市中一般の濡れ衣冤罪やつつもたせの類いを擁護促進する社会的作用も考慮の上、すべては男性が悪いという間違いを是正するように指摘する人がいてもおかしくない。それも政治作用の一部分だろう。

そもそも日本人女性の男性攻撃論には、強制性交は死刑(極刑)相当だという過激な主張が先にあるため、人身攻撃の要素に配慮した言葉を選んで非難批判する必要がある。

刑法犯ではなく問題行為に対する反省を促す上では不適切な単語だと思う。

刑法犯ですら、もはや弱者になったわけで、ただの面罵冒涜と解されるかもしれないし、更生に非協力的だと言えるだろう。

法律論で勝つ意味合いが、当事者たちを不幸にすることがしばしばある。

キリストや日蓮が賢明だったのは、法律は法律にすぎないことを前提にしていたことだし、きっと良識あるれいわの賛同者なら思い至るだろう。

思い至らないれいわ支援者や構成員は過激派と安同情の1群として脱落するに違いない。

表現の自由と加害者の尊厳を両立させることができない聖職者はまだまだ成長できる。

加害者の人権を理解できるようになれば、日本は先進国の基準の基礎を理解するようになったのだ。

事案一件では判断し得ない弱い人間すべてを包摂する法治の全体観を忘れてはならない。

本来は警察刑事司法への取扱追求がこの種の事件の本質的善後策として為すべきツボであるが、巨悪は放置しておいて弱者である個人のつるし上げに多大なエネルギーと資金を投入するのは、個人的に賛同しきれない。

犯罪者や邪悪なものを排除するだけでは、社会は変わらない。

子育て世帯のために厄介者は死んでしまえという愚かな伝統的日本人政治と変わらなくなる。

無数の善悪を全体的に整理して優先順位をつける人間の浅はかな判断をいかにマシにするかという虚しいが必要な努力は続く。

善悪がわからない学者と言って善悪仏教の専門家である高僧たちを糾弾した日蓮とクソ野郎ジャーナリストと糾弾した大石氏が二重写しに見えなくもないが、いずれにしてもそこは各人各様の感じ方とそこから生ずる合理的判断レベルだ。

悪いヤツは粛清しても殺しても構わない次元の仁の感性からは、罪刑法定主義や人間の尊厳は理解できない。復讐心や恨みで正義をふりかざすしかない。

仁の善悪は義を備えてはじめて人間の前提に立つが、いきなり死刑極刑相当だという人身攻撃正当化の暴論はさすがにいきすぎだ。ネット的な表現ならイミフ。

性犯罪やその類いに対する処罰或いは攻撃は、一歩間違えると宮刑などのアジアの残虐刑と合致する性質を帯びる。下が義を損ねたという権力者の一方的主張によってしかなされなかった極刑。

極刑というのはそもそも死刑よりも苦しみが大きいから名付けられた。

女性の権利を主張する人たちが人格権はすべての人に保障されていることを知らないはずがないから、裁判官が人身攻撃と断ずるのは人権感覚としてはまっとうだ。

女性特有の苦しみを考慮してもなお、人間の尊厳はすべての人に付与されるべきだ。

人類史から見ても抹殺を要求する過剰な個人攻撃が横行する時代は好ましくない権利不均衡の記録となろう。

歴史上優秀な立場だからこそ宮刑になって辱めを受けた古代の学者や武将たちに対して、ざまあみろという日本人たちがはたしてまともな人間なのかどうか?

宮刑になった人を著名人として羨ましいということはないのだから、宮刑そのものの残虐性を問題にし、かつ改善方法を具体化するべきところ、公益を損ねる残虐性を貫く愚を見出しうる。

人格権や人間の尊厳を主張するならば、パフォーマンスの質を文芸的にピリリとセンスある啓発啓蒙にしていって欲しかった。

そこでやはり日本は民主化させられないという、大衆政治危険論が燃え上がる火種になりかねない。フォーレターワードに賛同して投票するのが支持率10%人口1000万人超レベルならプラスの政治的効果と判ずることもできるが、差引勘定するとむしろマイナスになるだろう。

ましてや残虐に財閥の象徴天皇を極刑にしろという飛躍した危険な主張に解されると大変なロスだ。(代表と一蓮托生なので)

通過儀礼としての就職活動で不幸な出来事が起こらないように、蔓延する邪な会食接待そのものをまず警戒し周知し、受けるからには有事を想定し、有事の際には将来的に前向き建設的な関係性を構築すべく立ち振る舞う事態終息と戦争終結のための努力をしていくのが大人だ。

バブル期だけでなくわたしの卒業時代も日本の就職戦線のレベルがかなり概して低いと感じていて、学生にも不純に贅沢な接待をいかに多く受けるかに燃えるあさましい者は常に居て、採用側も釣り糸を垂れて狙う大人のギブアンドテイクだ。

公務員採用とはずいぶん違う野性的で欲望に満ちた世界だが、それが前提だから民事取扱。

権力者にそんな高尚な職業倫理やジャーナリズムの高潔さはむしろ想定外なのだ。

かつ残念ながら当事者相互に相手の死や追放を企図しているとしか見えないし、双方共に破滅的破壊的な自傷他害行為に明け暮れる狂気を感じるのは、単なるわたし個人の錯覚であろうか?

日本伝統のシャーマニズム、呪い殺す妖怪の魂、祟りや死の舞踏を観ているような不快感を覚えた。

オンナの恨みもまた往々にして女性蔑視を習慣化させ女性への信頼と名誉を失墜させる行為に走らせる。

N党が失敗したのも、条文法律上の正しさを裁判所に一定認められた上で矛を収められずに過剰な主張を繰り返した流れがある。

世間の注目を一定集めること、人に尊敬されることが、かえって足元をすくうことはありふれている。

この国に健康な生命の息吹はどこにもないのだろうか。

少なくとも政治やマスコミ芸能の世界には見あたらない。

被害にあった方には御見舞を言いたくなるし、アジア途上国においてもあらゆる弱者が加害行為を回避できるように効果的善後策を研究し普及させ実行する健全な流れが形成されるよう願っている。

女性の権利擁護者やれいわ支持者のご機嫌を損ねるとしてもなお大切なことは敢えて書いておきたい。