宮台という著名な社会学者が襲撃されたが彼はクリスチャンで差別主義らしく、文春オンラインには次のような精神知的障がい者に対する差別的発言をしていたという。
インターネット上では、宮台さんの孤独な引きこもり男性を批判するような発言について取り上げられている。宮台さんは、ニコニコ動画のコメントを取り上げ、「友達いないだろう」「ひとり寂しく死ね」などと発言していたこともあったという。
文春オンライン
このような発言は公的な社会的影響力あるいは知名度のある人のものとしては特に問題がある。
クリスチャンだというが売春合法化論者だったり本人が言うには異性関係も乱れていたそうで規範としては不適切な要素が多々ある。
どこがクリスチャンなのかよくわからないご時世ではあるが、各方面で乱れて暴言を吐いていたのだから、大勢から恨まれていた。
精神知的障がい者を敵視していることも明らかなので、どこか大量殺人事件の犯人とイメージがかぶる。
つまり、別事件の植松死刑囚にあたる人物を精神障がい者が私刑として死刑にしようとして失敗した後、精神障がいの苦痛で自殺したのだろう。
宮台と植松という対極にあるような社会的地位と、精神知的障がい者に対する偏見と差別感の一致を見出だすことができる。
皇族なら不倫しないとか、新幹線なら治安がよくて安心とか、精神知的障がい者なら死んで当然とか、日本人や後進国でしか通用しない思い込みが著しい。
しかし、現実には差別主義において、そのまま階級社会主義においては、宮台と植松は同一の価値観なのである。
素人が私刑で死刑を実行するのが犯罪なのは明らかだが、差別による無数の苦痛と死亡に対する私刑をしようとしていた点は国権による死刑と同じ正義感によるものだ。
刑法の見方と人権上の見方と被害者救済の方途を熟考すれば、精神知的障がい者だけではないめんどくさい対象に対する敵視と卑下が犯罪と死刑の根拠であることがわかる。
マイノリティや子育て中の人たちや病者高齢者もみんなめんどくさい対象だ。
それらを敵視して、はやく死んでしまえと言うことで、社会全体が殺伐として少数派排除、対外排除、女性蔑視、児童虐待、障がい者虐殺があたりまえになっていく。
人間の堕落そのものである。
なぜ日本がまともに変わらないのか?
クリスチャンにも重大な責任があろう。
わたしは大学で社会学を五コマ10単位履修しているので、差別学としては推奨できない。
日本では人権侵犯救済がきわめて消極的なため、東大卒の著名人すら暴言を吐いても許されているのだ。
本来は改善されなければ逮捕起訴してもおかしくない内容ではなかろうか。
刑法上悪いことをしたとはいえ、容疑者の死亡は日本人の悲劇であることに変わりはなく遺族の苦痛ははかりがたい。