近代法では自力救済は禁じられている。
目には目を歯には歯をという古代の教えは野蛮であり、リンチ(私刑)やさらし(見せしめ)は禁じられている。
そこで、釈迦や日蓮やキリストなどの聖人たちの教え、東洋の仁義礼智信(五常)を知らない人たちは、法律に猛反発する。
犯人、加害者を裁判で死刑にしろ、精神障がい者ならすべてさらせと主張している。
彼らに共通しているのは、身近な人が犠牲になり、目には目を歯には歯を。以下残虐で省略するが、要するにユダヤ人と同じ未開の民だ。
感情論なのである。
感情を晴らすための加害行為を正義であり、正当な主張だと信じ込んでいる。
被害者がセルフコントロールすることは容易ではないから誰もが気の毒に思っている。
しかしながら、気の毒だとか、つらいということと、報復してよいということが一致してはならないのだ。
被害者も加害者も傷を負っている。
時系列で先に傷を負っていたのは加害者だ。
加害者はかつての被害者。
負のループをたつことが1番だろう。
たとえ加害者を死刑にしても、精神障がい者を隔離しても、数千万人の加害者予備軍がいることが最優先の課題だと認識しなければ、犠牲は増え続ける。
むかし薄気味の悪いゾンビ映画を見たが、あの世界はこの世界。ひたすらゾンビが感染するのは、憎しみや報復の心が伝染する恐怖なのだ。
神は憐れみ赦し、仏は慈しみ、罪人は受け入れられ、悪人も成仏する。
被害者救済の真意は被害者の心の救済だけではなく加害者救済と治療であり、罰を加えることではない。
加罰を第一にすることこそ、ゾンビに感染している証明。
加害行為に及ばざるを得なかった悲惨な人を1人でも救済することで社会は一歩平和になる。
予備軍の数千万人の1人1人を救済する具体的方法を真剣に考えて実行していく心になれば、その人の心のゾンビウイルスは死滅したということだ。
迷惑行為の段階でも構図は同じ。
相手を許すことは簡単ではない。
決意がなければ不可能だ。
動機を知りたいと考えるのは、加害者の人生をすべて詮索するようなものだし、世界の多くの宗教やたくさんの教えや階層ごとの常識の違いを理解しなければ動機は理解などできない。
加害者の生存権を奪う権利まではないのだ。
被害者になる前に、多様な人間と異なる階層を知る必要があったのだろう。
よかれと思い、職務上の精一杯と思い、努力しているだけでは、われわれは平和に幸福になることができないことを知るべきで、被害にあう今までそのことに気が付いていなかっただけなのだ。
たいていは法律が悪いのではない。
宗教や社会規範と信じ込んでいる常識に重大な間違いが隠されている。
その間違いから潜んでいたウイルスが騒ぐだけだ。