FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

障害のある人の犯罪と被害者感情と司法の本性

よく障害のある人の犯罪で深刻なものをマスコミは取り上げるが、一様に被害者の処罰感情に肩入れし、司法が厳罰を決めるように求めるものばかりである。

以前も記事にしたが(221001「被害者の凶暴性」)、加害者を殺せというのは、まともな人間の感情ではなく、被害者感情としては低レベルそのものである。

被害者遺族が障害者レベルの理解力であることをさらしている。

自分の子供やペットがよくわからずに間違いをやることに対しては逆に理解がありすぎるケースがあるので、そこで障害者に対する偏見と差別という問題が、被害者でありながら、遺族でありながら顕在化する。

被害にあうということの原因は、ケースによっては相互作用と相互理解の問題であって、加害者でありながら障害者がよくわからないまま加害行為に及んでいることを冷静に見るならば、処罰感情はまったく生じないことすらあってよい。

人間関係をうまくやるための努力としては、実際に不足していたという証拠として加害行為が発生したのである。

障碍者を人間として見ていなかったからこそ、その特性を理解しようとせずに、特性を含めて嫌がるのが当然であると決めつけ、人間として拒絶してきた結果のゆがんだ人間関係が構築され、そのひずみのあらわれとして加害行為を誘発する。

わたしの親族が仮に障害者に危害を加えられたら、関係性によっては被害側を責める。

障碍者は余裕がなく判断能力が不足していることを考えて接していれば、激昂させたり犯意を生ぜしめたりするようなことにはならない。

加害者障害者を罰してくれとは思わない。

殺された方が悪いという排除志向の日本的にはありえない見方や感情は、相手を障害者として理解していなかった場合には成立するのである。

健常者が障害者をだますのと、障害者が健常者をだますのと、これはまったく違う。

健常者は障害者をだましても問題なく、障害者が健常者をだますのはけしからん無期懲役だというのは、一方的な差別である。健常者をだました障害者に賞をやるわけにもいかないが、むしろ障害者をだましたら名誉であるという日本的風潮には問題がある。

そもそも刑法は弱者が安心して市民生活ができるようになっているが、日本の場合は、そこのところがまったくわかっていない。

だからこそ司法で知的障碍者に対する特別公務員による致死行為が無罪になったり、知的障碍者によるわいせつ系殺人で無期懲役になったりという、先進国の刑法の量刑と真逆の判断が多発するのである。

特別公務員が障碍者を死なせたら厳罰極刑であり、障害者にやられたら厳重注意で済ませる。

私は人間なので、地球人類としての人権感覚があるため、そういう常識的な感性を持っていて揺らがない。

よくわからない障害者を無期懲役にするということで障害者は何一つ反省などできないし特性が変わることもない。

子供相手に難しいお説教をしてお仕置きをするのが虐待であるのと同じで、政府議会司法関係者が障害者に対する理解を怠っている日本の実情というのはまことにお粗末な低感情の被害者健常者に寄り添うだけの一方的差別的司法なのである。

被害にあわないためには、障害者との関係性をいかに偏見のない寛容なものに構築していくかという積み上げしかない。

偏見で接していれば、嫌々というのは障害者であれ伝わるから、トラブルは惹起しやすいし、ただでさえキレやすい障害者たちがキレるのは当たり前である。

些細なことで泣き出す赤ん坊と同じように、よくわからないからこそ、わかること、共通解を増やしていって信頼関係を作らねばならない。

障碍者の錯誤や低次元な心理世界にのみ込まれるより、特性を前向き建設的な作業効率向上に転じていく理知的な機転を連発するノウハウが必要なのかもしれない。

一旦被害にあうと、障害者は迷惑で厄介だから虐殺しろ死刑にしろというナチス的な本音の意見が顔を見せる日本人の大多数は野蛮である。

偏差値の高さは頭の良さではない。

日本ではむしろ障害者の発想を活かすべき停滞と固定観念で国家的な損失が重大である。

人権はやさしさなどではなく、弱者に対する愛だけでもなく、地域社会が活性化するための多様性の相互尊重と相互作用から発展していくためのものである。

外国人が労働者であると同時に人間でもあり、多様性の素材そのものであるように、障害者の多様性と奇抜性を活用できるかどうか、そこのアタマのよさが現代社会に求められている才能なのである。

こういうことを理解できない人たちが西洋音楽を理解しているというのは、偏頗な理解であり、西洋や人権に対する偏見があることを示しているのだが、日本人の伝統的な美しさや価値観だけで障害者や外国人を推し量ったり決めつけたりすることは、もはや自殺行為であり、被害者が今後も出ることは避けられないし、ホロコーストするわけにもいかない。

そこが日本人健常者に求められているパラダイムシフトのツボである。

ペットや障害者を殺処分するようではまともな先進国ではない。

時代が変わって避けられないことが多い共生の時代にあって、被害にあってしまうとほとんどの人が笑えないから、ツボは先に押さえておくように老婆心から記事を書いておく。

自分で自分の首を絞めるという言葉があるが、障害者は迷惑だとか厄介だとか、貧乏人は努力をしていないとか、そういう偏見から判断し行動することもまた、一般的健常者として自分の首を絞めることになる。

障碍者の方に対して失礼なことがないように、人類の一員として自分自身の行いを律していきたい。

学習能力の中の障害者理解や多様性尊重についての能力が著しく低かったために起こる被害について、国家的な法解釈や予算人員配置上の間違いがある面もあるが、個別的な人間関係における理解不足については、各個人の努力不足があったことを認めるしかあるまい。

いかに国が人権教育を推進しても、国民ひとりひとりが努力してAさんBさんに対する理解に努めなければ被害は発生するのだ。

通り魔ではない案件については自業自得の部分が大きいだけに予め障害者と向き合えるだけの人間の魂を持っていなければならない。

へつらいや機嫌取りがマイナスになったり異性を意識しすぎたり偏見や知識を起点にしすぎたり、人間の間違いはよくあるパターンが多い。

絶えざる変化、変容、修正を厭わず建設的に関係性を創れるか?

不断の努力は生きている限り必要だ。