去年だったか、G線上のアリアのレッスンをうけたことがある。
最初は14歳のとき、バイオリン教室の合奏で弾いたのだが、その時のメンバーは過半数がコンクールの福岡大会出場組で、フレーズやクレッシェンドなどの全体指導を受けた。
大人になってから、個人レッスンでもさらに完成させたいと思い、47歳で改めて聴いていただいた。
しかし、残念な指導をされてしまう。
編曲者のウィルへルミの時代は、バッハの時代よりも演奏の風合いが変わり、みなさんビブラートを豪快にかけるものである。
ギトリスも目一杯ビブラートをかけた。
わたしも世界中のみなさんと同じように、豊かな響きとビブラートで歌い上げたところ、バッハの時代はビブラートはほとんどかけないのだからビブラートはボツと言われた。
その講師はテュッティ専門らしく、あらゆるソリストの裁量を否定する方である。
きっとA線上のアリア(オケ版)と混同している。
ソロ特有の楽しみを知らない講師は、大手の音楽教室とか中規模教室に多いタイプ。
そもそもやってきた課題曲が偏頗なので、わからないらしい。
完成の仕上げのためのレッスンをお願いしたのだが、基本的にまったくずれた指導だった。
完成段階では楽譜の指示通りなんて誰も期待していない。
音やリズムや指示記号が完璧に弾けるからこそ、高次元の指導を期待していたのだが、そういうソリスト教育の専門外の講師にお願いするのが間違いだということなのだろう。
音大はオールマイティーに学ぶ機会だが、個人差が大きくて対象外の講師も混在しているので、これからは気を付けたい。
基礎と楽曲の指導にメリハリのないぐちゃぐちゃな指導をすることもあり、教育畑の部外者みたいなもので、講師の資質が低すぎて習う側が続かないことが多いようだ。
日本の音楽文化が育たない理由は、教育的知見が明らかに不足している講師が相当数いて、生徒に毒舌ばかり吐いている事例が多いからだ。
経験豊かで有能な教育家たちとはかけ離れた、ありえないしごきとか根性論みたいなものによく似ていて、生徒たち一人一人を尊重できないらしい。
ここ数年間、そんなレッスンではうまくならないというものばかり、見聞きし、自らも体験している。
わかっているつもりの生徒を見下すだけの講師は教育に不向きだ。
日本人であっても諏訪内晶子先生、戸田弥生先生、篠崎永育先生などのきちんとした先生方が一様に生徒にたいする厳しさより人格を尊重するなかで、相手の意識と心に丁寧にツボを訴える心や知恵を持っていることもわかる。
受信側の解像度さえしっかりしておれば、なにをやるべきかわかる。
無駄にべらべら喋る講師も難しいことが多い。
そんなことで上手くなるわけもない。
少子化で有能な教育家も減少していく。
ますます拝金主義の非音楽的音楽家が増えていき、アマチュアや受験生のまっとうな教育環境が厳しくなるだろう。
音大を出ても、遅かれ早かれ非音楽的音楽業界の姿が浮き立ってくるから、かなり怪しい業種だという自覚は必要だろう。
鈴木鎮一先生は生徒に責任はなくすべて大人の(講師の)責任だと言ったが、教育を真剣にやることと、音楽をわかることが一致することが本来の演奏者の姿だ。
アウアーもフレッシュもハイフェッツもみんな両方素晴らしくて、発する言葉は少ないものなのだ。篠崎永育先生などワンレッスンで3分程度しか口を開かないこともあった。
そのなかに、あらゆる音楽とバイオリンの感覚的伝授があり、ツボを外さない見事なものを多々感じた。
それと似た感覚の講師もいたのだが、講師都合でその講師には習えない。
講義を期待されているのではなく、上達と楽しさのための実効的レッスンだけを期待されていることに気が付かない講師は演奏家としての魅力を自ら落とすことにまず気が付くべきなのかもしれない。