親族に教育者がたくさんいたこともあって、わたしも教育課程の単位をとろうとしたことがある。
小学校の頃は、バイオリンの先生になりたかった。
お勉強が不得手だったということはなく、両親の虐待が成績や人格形成に悪影響を及ぼした。
企業が教育事業をやる場合、概して営利のみでやるため継続できない場合があり、教育者待遇は深刻だ。近年は一般公教育すら悲惨である。
最初は幼児教育の先生が楽しいと思ったが、今はマルチに中級までの指導能力があればよいと思う。
演奏の実力と指導の能力の両方が必要だから、まだまだ指導者の資格はない。
お兄さんとしての手ほどきレベルなら経験があるが、本人はそれは目指していない。
個人の教室は協力者がいなければ不可能だ。
大手の教室は、収益を優先しすぎるから、バイオリンを教えている先生はあまりいない。音楽学部限定採用なので、対象外だ。
きちんと教えると生徒はすぐやめてしまうことが多い。
譜面が読めないとか音程聞き取れないとかいうのは、義務教育課程の問題で、専門外となる。
収益のためなら、それもやらなければならない。
バイオリンを弾こうとする人たちの絶対数が少ないと教室は成立しない。
合奏、室内楽の楽しみなしに、ポツリとピアノ伴奏で数名の生徒の発表会を開催するのは、かなり収支も悪く、そもそも盛り上がらない。
かくして教室は資産家の暇つぶしとなる。
そんな見たてで、小学生の頃の目標は達成されそうにないと判断したのが、15年前のことで、目標は変更となる。
バイオリンの先生の定義が、音高音大進学者を何人出すかという基準になかば限定するというのが、実は健康的なもので、趣味とか楽しめればとかいう目標は99・9%実現しないので、そういう精神的苦痛著しいことをやる意欲はない。
わたしはそれで教育者になるより、アドバイザー程度の範囲でピンポイントの役割を果たせる能力のほうを重視することにした。
そして当たり前の演奏能力の基礎や定番の曲をいくらか確実にするほうに傾注しようとした。
そこで、まともな指導者が少ないことが、その進行を遅らせた。日本でバイオリンを習おうとするのは、砂漠で水を求めるようなものだ。
遅れながら奏者デビューしている人たちもいるから、かつての奏者としての自分をいったん脇において、地道にまた取り組んでいる。
基礎に取り組んでいて、感じるのは、演奏のためには最短でもあと3年は必要だという気長なことだ。
しかも中年から基礎をやることで、他の奏者より毎日の基礎確認の時間が長めに要る。
まともに気楽に弾けるのは、おそらくあと5年くらいかかるだろう。
発表会で子どもと同じ舞台で楽しく上達する喜びを志向しながら、様子を見ていくことになりそうだ。
音楽の価値を認める人たちに理解されれば、ほとんどそれで幸福だし、欧米のクラシック音楽愛好家と通じあう喜びは大きいものなので、多少のハードルはあるものの続けていきたい。
とりかかりだったスズキメソッドはキリスト教系だし、成育期に何十人の白人たちと交流している経験も大きいのかもしれない。
バイオリンはヨーロッパ製、弓はフランス製とアメリカ製、弦はドイツ製。
キリスト教由来の文化に囲まれて珍しくもないが、幼稚園はカトリックで神父が園長、伯父伯母両親みんなカトリックの中高大学ばかり。
神道では音楽というより、序列身分階級と運動神経の競争原理で、深いところは闇である。
教育の定義や役割もまったく異なる。
日本人が日本人として音楽教育をきちんと考えて楽しむことは難しいが、価値がある。
岸田首相がNATOの首脳会議に出席するそうで、先日のフランシスコ法王との謁見に続く動きとして重要だ。
日本人の人間観とキリスト教由来の人道観の乖離こそ、音楽教育の危機と悩みの根本原因である。
孔子の教えは、キリストの教えとは違うし、仏教の人間観も正しく知られていない。
同じホモサピエンスでこれだけ教育が違う。演奏が違う。
共通項と高めあう前向きな人類の進化に添うことができるような日本人でありたい。
みずからを貧困に置き、貧民とともに生きて喜びを感じる聖者こそ真実の聖者だ。
人間は立ち回りや利害損得で堕落するほうが賢明で幸福だと錯誤しがちである。
人間、教育は魂の対話が1番であり、現代の大部分の人間は動物以下の見下げ果てた生き物になってはいまいかと人類の1人として心配している。