FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

趣味のバイオリンはムダか?外道・敵性音楽のススメ

f:id:FujiYama:20220131124951j:plainやる気と時間や経費があってやらないのはなぜか?という反問、反訴から話をはじめたい。
全国津々浦々に音大卒の先生が無数にいて、街へ出ればバイオリンを売っていて、最近はネットでもバイオリンセットが買える。暇で経費があって、音楽好きなのに、なぜ弾こうとしないのか?

根気がいること、仲間が少ないこと、成果がはっきりするまで5年位かかること、などの理由が考えられる。
仲間を見つけ、根気をもって5年位やれば成果が出るということでもある。

バイオリンの面白いところは、一度覚えたものを記憶していて、しばらく休んでもまた思い出すこと。
貯金というのは利子や為替レートなどで変動し、使えばなくなる。
教育全般、一度積み上げたものは生涯役に立つが、どうやら楽器が一番遺伝子や脳に刻まれるようだ。
痴呆や老化による知的身体機能低下は仕方ないが、それ以外では記憶が劣化しない。
習得した技術レベルは、一時的に落ちても少しやれば回復する。
いくつから覚えても、それは消えない。

数学の難易度のある方程式、歴史の知識などはきれいさっぱり忘却の彼方なのに、ビバルディの協奏曲はスラスラと思い出す。
有段者だった得意の毛筆で漢詩を書こうとしたらズタボロなのに、クロイツェルのボーイング練習をしてみるとバリバリと昔の獲得技術を思い出す。

やっかいなのは、毎日のアップと基礎練。
シェラディークとクロイツェルなどをやって、音階にガッツリ取り組むと2時間くらいは必要だ。
甘ちょろい下手のよこずきでよいと開き直れば、基礎練なんてやる必要はないが、そういう部類はたいてい中年でリタイアするか、人が聞きたくならないシロモノとなる。
趣味にそれだけの時間と労力をかけられるかという問題。
基礎練2時間プラス各曲のおさらい2時間プラス新曲挑戦に2時間となると、もはや仕事にしなければ、あらゆる意味で元を取らない。
そもそも毎日そんなに弾くのは若さや環境が整ってこそ、現実的には基礎練1時間と曲1時間の2時間くらいがやっとである。
つまり、バイオリンに毎日2時間を5年できそうな人がかろうじて趣味として成立する。

私の場合、幼児教育を受けたアドヴァンテージがあり、すでに12年くらい講師にみてもらっていて、基礎練とおさらいをするだけで、なんとか人に喜んで聴いてもらえるかどうかであり、無駄にもならずたいした努力も必要ない。
技術レベルを完成させるためには、さすがに2時間では不可能で、はっきり別の経費と努力が必要だ。
40代からの後発で新たに技術練習に取り組んでいるが、その成果が楽しくて楽しくて仕方がない。
技術が上がると、同じ曲が易しく感じるし、楽しく確実に弾けるからだ。

これからの時代、現金は衣食住のために消えるばかりで、楽器にはあまりかけられなくなる。日本経済がそうなるのだから、ますます富裕層のための趣味になるだろう。
円安が150円くらいまではあっという間に進行していき、おそらく諸経費は値上げ合戦になり、弦や毛のグレードを下げなければなるまい。
今のうちに輸入楽器の程よいものを入手しておかなければ、価格高騰の可能性もある。

一度手に入れた技術は、急病や重病でなければ劣化しない。生活を維持しさえすれば、ほぼ生涯使えるスキルである。
1日2時間と経費をマメにかけるだけで、崩れざる絶対的幸福の心境に達するようになる。
ただ音楽の深さ、楽しさ、味わいがわからない人にとってみれば、ただの無駄であり、贅沢だと思う。
ちょうど日蓮宗の信者がお題目を素晴らしいと毎日数時間仏壇に手を合わせ、南無妙法蓮華経キチガイと揶揄されるのに酷似していて紛らわしい。題目に訓練やスキルが要らないというアドヴァンテージはあるが、端からはなにがよいのかわからず、無駄な暇人の趣味に過ぎないようにしか見えない。念仏でも似たようなもの。
公益性には、万人に対する癒しの効果が含まれる。
日蓮宗は唱える人たちだけが癒され、バイオリンは弾く人も聴く人も癒されるところが、決定的に異なる。
正統の幼児教育と基礎練を踏んだバイオリンは決して無駄な浪費の次元ではない。
正統のクラシックならなおさら公益性は高いものだろう。(もともと立派に弾けているとなおさら)
先日著名なバイオリンビオラ弾きの演奏を聴く機会があった。喜寿をこえて現役である。
老衰をこえて技術を維持している人もいる。観客席の高齢者たち、ファンたちはみなその姿に鼓舞され、感動している。視覚障害者などでも同じ効果や感動があり、その波及は奏者の遠戚にも及ぶから侮るべきではない。
難しい各宗教とは別の、手間暇のかかった文化的嗜みで、みなさんが健全なる一市民を志向する一助になるように願っている。