奏者として有名な人たちはマスタークラスや音大生相手の講義レッスンしかやらない。
それほど有名ではない奏者が片手間に教えることが多い。
本職が演奏だから、幼児児童の頃から習い、基礎を毎日マンツーマンで覚えた奏者というのは、たいていの場合、どう基礎を教わったか記憶にない。
どこかの汚職政治家ではない。
記憶にないのは、事実ない。
だから、これもあれも当たり前で、習慣で、それを言葉にして生徒に伝えることができない。
伝える言葉を持っていても、生徒を毎日チェックすることができない。
生徒は正確に理解したり習慣で練習したりすることが難しいから、ほとんどの生徒は基礎ができず、なんとなく音を出しているだけになる。
奏者専門と教育者専門と兼業はまったく別だが、得意不得意と相性の問題も大きい。
奏者に得手不得手の分野があるように、教育者にも専門と得手不得手がある。
そもそも教えるのに向いていない人たちも教育者として教えている。
そもそも生徒を人間だと思っていない先生もいる。
たとえば、ウィーンフィルは女性団員をかつては認めなかったし、日本人では華族や士族と財閥だけの趣味であり職業だと未だに信じているきらいのある人たちがいる。
そこまで考えて、先生を選ぶことが大切だ。
いくらお金をかけ、時間をかけても、そもそも教えるスキルに欠けていたり、教えるつもりがなかったり、そんな先生がごまんといるのだから、日本のバイオリン教育界は地雷原みたいなものである。
公的な基準が日本にはないので、教えるといっても、なんでもあり、どうでもよい、あとは知らないのである。