天皇御一家が正月、困窮者の方への支援の輪が広がるようにというようなことを発言されていた。
何気に政治的である。
いや政治的な発言を回避するために、より政治的になったとも言える。
社会保障予算を削減或いは抑制することを前提にしなければならない財務省宮内庁のもとでの発言と考えるならば、特に不思議はないが逆に人間性を疑われる。支援の輪があれば予算はほとんど不要だという扱いができる。
しかし言葉にはまさに広がりがあり、支援の輪が広がるならば別の政治力学が作用して社会保障予算を増加させるだけの新たな政治勢力を結集せしむるものとも解釈しうる。
こういう解釈の多面性を考慮しての言葉であれば、思慮深い発言だと思うが、そうでなければ財閥寄りの非人道的社会保障切捨て論者だということになってしまう。
かつそこで日本人の良心がどの程度のものとなるかが決まってくる。
決めるのは国民である。
あるはずで、あるべきなのが日本国憲法の趣旨であるところ、政治的誤誘導が繰り返されているから日本人の人間性はもう永らく崩壊してきている。
生活保護行政のていたらくは今に始まったことではない。
財務省宮内庁の宗教的な政策誘導や非人道的行政誘導の悪しき慣行の開き直りをただせるかどうか?
財政破たんは幻想や妄想である。
債務残高が桁で増え続けるのは、世界中同じ経済発展の経緯を示す記録に過ぎない。
しかし、政治における人道的破たんは、困窮者への虐待や虐殺を日常化している。
裏金作りも人道的破たんの一端である。
賽銭泥棒は、神道に支援の輪がないことを示している。人道的支援の輪があれば泥棒するはずがない。
たかだか一万円かそこらの額すら支援を受けられずに困窮している人達を放置するような犬になってはならない。
最も積極的に支援の輪を形成すべき公務員と支援団体がまだまだ報道されるとおりの下衆なピンハネ狙いや不正を繰り返しているのは、情けないが財務省宮内庁の神道による予算編成や困窮者への偏見が悪い。
そういう構図を見ると、皇室は人間性を担がれて曖昧にお茶を濁すところまでしか自由に発言できない辛さを抱えているから、天皇家日本民族の罪深く哀しみに満ちた部分をいかんとも否定できない。
なぜならそこから派生するのがあらゆる国民への虐待であり、過去の不幸な戦争はそこから派生したからである。
天皇御一家に人間性を見いだすことはあまりにも安易であり、真の価値は困窮者に存する人間性こそである。
そこから国造りを始めることをリーダーたちが教えなければ、あさましき財閥権力への媚び諂いを元旦の計となす国家的自爆となる。
今年も日本は生きづらい国になることがすでに決まったのである。
天皇だからレスペクトし、勤労者だからレスペクトするというような次元の人間性破たんの民族であってはならない。
この国にあるのは、自然災害だけでも激甚だというのに、人為的にあってはならないことばかりである。