スポーツをなんのためにするのかわからなくなるお祭りがオリンピックである。
異常なDNAを持った優秀な運動神経のあるヒトを訓練して国を代表して競わせる。
通常のDNAで日常生活上はそんなに飛んだり走ったりしない。
国の人口と科学と運動施設がある程度の成果を決めている。そこに文化程度は関係ない。
農耕や工場労働をする能力としてもあまりに無意味な優秀さであり単なる異常性の域である。
しかし人間には昔から努力することや限界に挑戦することを尊ぶ精神がある。
そして他と競争して勝とうとする心がある。
それが国家間でもある。
そこで一番問題にするべきは、個人が幸福かどうかである。
アスリートがメダルを取っても賞金はそれほど多くないし、テレビの仕事が来るくらいで、スポンサーがついて選手生活を送れたらある程度は幸福だろう。
しかし端的に言って努力に見合わない。
特に日本のスポーツ文化は根性論や体罰などの問題が根深い。
他人より優秀であることが楽しいだけでは国際試合で勝ち続けられない。
選手生命は短い。
人間がふつうに生活を送り、活動していれば特にスポーツは必要がないものである。
運動不足の解消になる程度の運動をスポーツとして定義すべきであり、競争や成績が一番になるのはいがみあいであり政治であり戦争でしかない。
美辞麗句に踊らされて国家悪の推進に一役買わされる愚かな民であってはならないと思う。
人間にとって大事で必要なものは、国家間による戦争展示会ではなく、日々健康増進につとめながら文化的充足のために不断の努力を続けることであろう。
努力するならば人間として価値のあることに努力したい。
ほとんど動物的で反射的なもので競争する映像を見ても、残虐な戦闘シーンや切羽詰まった災害避難のようでまったく楽しくない。
不必要に研ぎ澄まされた選手たちの緊張感は、見ていて可哀そうになる。
スポーツを楽しむこととメダルをとることは完全に別のことだ。
なにかメダルがないと幸福になれないと錯覚させられている哀れな奴隷たちにしか見えないのは私だけだろうか。
特別待遇をされると人間は錯覚しがちだし、障害者にまで全力疾走をさせる精神はもはや異常だと思う。
ほどよく鍛えた人間は美しいしほどよく訓練した人間は能力が高い。
しかし極限の国際競争をする人間の異常性に気が付かないわけにはいかない。
人類の残虐さや邪悪さはギリシャ時代から変わっていないし進化していない。
もうそろそろ人類全体として俯瞰して進化するべき時なのではないか。
ほんとうに鍛えなければならないのは人間の魂や智慧である。
人間社会の抱える問題のほとんどがオリンピックでこじれるだけでまったく解決しない。
あらゆる人類の個人の幸福追求を犠牲にしてまでアスリートの私利私欲や国家官僚の虚栄心のためにオリンピックを応援することはできない。
文化的な競争を第一にする人類の方向性こそがわれわれの幸福な人生にとって大切である。
庶民を鞭打ち弱者をけしかける精神はいったいまともなのか。
各国で庶民や弱者が最大限努力して得られる報酬の上限を設定するためにスポーツ選手たちは悪用されている。
愚かなことに彼らにはいい気になって国家マフィアの悪事の片棒を担ぐ程度の知能しかないのである。