FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

宇宙のもと (久遠元初)

神様がこの世を作ったという話を信じている人はすでに自己矛盾。神様を作ったのは誰かという問いが発生するから。
仏教(日蓮正宗)のほうがそこはきちんと説明がつくようになっている。
科学神話によって輪廻の考え方は安易に否定されるが、実際に生死を繰り返す生命活動は銀河系規模で連なっており、あらゆる生命が輪廻しているのは事実である。ただわれわれ生物に前世の記憶がないというだけである。
宇宙のもととはつまり生命活動のもとである。宇宙そのものもまた輪廻している可能性すらある。
さて宇宙のもとなんて想像もつかないと思うのが一般的である。
生命活動の身近なところでは具体的な交尾や臨終のシーンであるが、あまりに直接的すぎると視覚にとらわれすぎる。超新星の爆発とか。
神聖なシーンや神々しいシーンは芸術で表現されることが多い。
それらが表現している空気感というのがある。
なにか緊張感や安心感だったり躍動感や宗教的なものがあったりする。
それら無数の芸術作品のエッセンスを集めて純度100%にしたらそこになにがあるかご存知だろうか?
この森羅万象の真実がそこにあり、それこそ宇宙のもととは言えないだろうか?
私はクラシック音楽がとても好きなのだが、その素晴らしいクラシック音楽の各楽曲の感動を全部集めて一瞬に一ヵ所に表現してもなお宇宙のもとには及ばないと思う。音楽は宇宙のもとのほんの一部を表現しているに過ぎない。
それほどまでに宇宙のもとは素晴らしいのだ。
なんだかどこかで見てきたようなことを書いているが、実際に体感してきたので書いている。
この世のたくさんの感動を全部集めても及ばないような深い最高峰の感動こそが富士大石寺の大御本尊内拝である。ラメもないのにキラキラしている。金箔のキラキラとは違う。パーンとはりつめた空気がそこにはあって、日蓮の魂をしたためた本尊に読経唱題していると、宇宙的規模の壮大な仏典や仏の悟りというものは決して机上の空論やおとぎ話ではないことを体感する。
森羅万象の生命活動には例外がない。宇宙は一切を包含している。神も仏もあらゆるすべての生命を大切にしたがゆえに彼らを指して聖人という。
かれら聖人の教えを理解実現するのを賢人という。
はたして今の日本には聖人を理解できる仁はいるのだろうか?
富士大石寺の代々の御法主上人は基本的に聖人の悟りがあるという。
日蓮正宗を信じてみるという選択はなかなか機会に恵まれないものだ。
堕落、退廃、楽、人気、名誉、資産、収入、グルメ、享楽、快楽、出世、旅行、観光、博打、異性、自己啓発、鍛練などに酔いしれることに終始して人生はアッという間に過ぎ去る。
様々な私利私欲と幸福体験に振り回されて一般的に真実は見失われている。
真実などどうでもよい人たちがそこいらじゅうにたくさんいる。
そして真実に到達することこそ人間に生まれてきた意味だという人たちもいる。
安易にわかったつもりにならず、安易に悟った気にならず、謙虚に御本仏日蓮が遺した大御本尊と御法主上人とともに向き合うことが唯一の方法だということを書き遺しておきたい。
私の命もいつ尽きるかわからないから。

自民党大敗の兆し

◆千葉県知事選開票結果
当1409496 熊谷 俊人 無新
  384723 関  政幸 無新
  122932 金光 理恵 無新
   20256 皆川真一郎 無新
   19372 平塚 正幸 諸新
   15986 加藤健一郎 無新
   15166 河合 悠祐 諸新
   12150 後藤 輝樹 諸新
         (選管最終)
数日前の選挙結果を見て、ホッとした。
自民党推薦の関氏大敗である。
鈴木大地氏が立候補していても結果はあまり変わらなかっただろう。
このまま日本を自民党に任せていたらみんな死んでしまう。これ以上生活に困窮している人が増えたらみんなが困る。
すでに産業の空洞化は深刻な程度になり、まともな仕事がどんどん減り、大学を卒業しても契約社員にならなければならない人が増え、少子化が目立つ。実質賃金が先進国で唯一下がっている。
自民党菅総理では、これを加速させていくことに血道をあげるのだから、だれもが日本の先行き不安になるのが当然だ。さらに中小企業を買い叩かせる政権ではめちゃくちゃになる。
もうたくさんだ。
やけに増えた貧乏人をこれ以上増やさないでくれという民意であると思う。
コロナの自粛もまったく必要なかった。
きわめつけは、総理の生活保護があるという開き直りだったと思う。
これを機に全国で数千万の国民が声をあげるようになったらと思う。
この30年耐え続けてきた結果は歴然としている。
あまりにひどすぎる。
これ以上自公政治の犠牲者を出してはならない。f:id:FujiYama:20210328004003j:plain

信心強盛の落とし穴

世の中の宗教は星の数ほどあって、みんな不幸になっていく。
そうかといって葬儀や埋葬はしなければ落ち着かない。
そこで一応幸せになる伝統仏教を例に信心強盛の盲点を見つけたので記事を書いてみた。
日蓮正宗の御書全集には、強盛という言葉が約60回でてくる。あの人は信心強盛だとかいう会話はありふれている。
しかしもともと、強盛という言葉は、よいほうにばかり使われていない。悪心強盛という表現も何回も登場する。悪い宗教を熱心にやるのも強盛だし、悪い心も強盛なことが多いのが末法である。
日蓮正宗の本尊は実に素晴らしく、総本山の大御本尊など宇宙的な素晴らしさである。
にもかかわらず信徒数はわずか八十万である。
日蓮が明言しているように正しいほうが数は少ない。これは真理真実であって異論はまったくない。悪は多けれども一善に勝つことなしである。
問題は、伝統仏教貧困層障がい者を足蹴にしたり門前払いにしたりしてコミュニティから排除してきた歴史と悪い意味での実績だ。
そしてそこにこそ強盛な信心というのが暗躍している。釈迦も日蓮貧困層障がい者を排除しなかったが、あやしげな自称仏教者たちは信心強盛であるがゆえと貧困層障がい者を受け入れずに排除してきたのである。
その場合の信心と悪心は見事に一致している。
ホームレスや困窮者の問題などが社会問題として取り上げられるが、その原因こそ信心強盛、悪心強盛である。それで精神を病むことも多い。
信仰を持つことは大切な人間としてのつとめであり義務であるが、きちんとした始祖、聖人の教えを正しく学んで行動しなければ、たんなるひとりよがりの私利私欲である。
貧乏人はいらないとか仕事ができない人はダメだという始祖に背いた真面目気取り、信心気取りこそが、多くの社会問題を作っている。
そもそも、あらゆる生命の尊厳を護る信心こそが宗教の大前提でなければならないと思う。
偽善や姑息な貧困層障がい者いじめの邪宗教はいらないし、始祖に背いた伝統仏教もまた相当罪深い宗教だといえるだろう。
聖人たちは貧困層障がい者こそをいつくしみ励ましつづけたのである。
日蓮正宗大講頭戸田城聖も貧乏人と病人を救うのが真実の宗教であると明言している。
人類史を振り返っても同じである。
何千年ものあいだ貧乏人と病人が聖人とその弟子たちに救われてきたのである。
それを忘れたり意図的に嫌ったりしている聖職者たち、公務員たちは、まったくその資格がないと言わざるを得ない。
そういうわけで私は宗教熱心や信心強盛というやつが大キライである。
そういう人たちはまずロクな信心はしていない。私利私欲の自己満足である。

モーツアルト ディベルティメントF

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マイナーなディベルティメントですが、とても明るくて軽快で大好きな曲です。

この透き通った感じの音がよくて、それには最初の四分音符一音ごとにフルボーイングのつもりで弾かねばなりません。弓をけちるとまったく面白みのない音でどんづまりです。2楽章はゆったりとした天上の響きがとてもよいです。ゆっくり弓を使う練習によいです。結構長めの一音を繊細に弾かなければなりません。3楽章はシンプルなメロディーの繰り返しですが、これがボーイングをのびのびと使うのはそこそこ難しいです。ピアノのところはたいした難易度はありません。

弓の持ち方がしっかりしていないとなかなか難曲になってしまいますが、弓をぜんぶ思い切って使えるとカルテットでとても楽しい曲です。

 

モーツアルト ディベルティメントB

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マイナーなディベルティメントですが、シンプルで軽快なモーツアルトだと思います。前の日食べ過ぎて苦しい時に食べるような軽食喫茶のような曲です。基礎力がついてきたら練習曲としてやるのもありかなという曲です。それほど難しいという感じがしないのですが、油断はできません。まだファーストとセカンドでしか合わせたことがありませんが、とても楽しいカルテット曲です。

クライスラー シチリアーノとリゴードン

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葉加瀬太郎クライスラーアンドカンパニーの編曲で思い出深い曲で、大好きな曲だ。いわゆるどうしても弾きたい曲。

ただこの曲、大人になってからチャレンジしたので、後半の速いパッセージで指が動くかどうか少し心配だった。シェラディークを習うまでは、準備なしでシチリアーノの最初から音程を取るのが難しかった。リゴードンもシェラディーク効果が大きい曲。音の粒がそろうように弾くのには基礎力がいる。

あとはひと弓の中にアクセントを4つ入れるというものが少しコツがいる。ひと弓の途中でアクセントを入れるのが面白いといえば面白い。

これは舐めていると手ごわい曲だが基礎練を続ける限りまだまだこれからよくなっていきそうである。

一番最初は高校生のころ、葉加瀬太郎さんのクライスラー&カンパニーの編曲で聴いた。編曲がとても面白いのだ。そして後からティボールバルガの演奏で原曲を聴いて二度感激した。たしかNHKラジオで流れたことがあった。

クライスラーは演奏者としても優れていたが、作曲家としても特に短編で優れていた。信じられないような名曲が多い。どちらかと言えば作曲家として好き。

演奏上この曲は易しくもなく難しくもない曲。

鑑賞にたえられるレベルまでもっていかなければ弾く意味がないので、またそのうちレッスンを受けようと思っている。


ビバルディ バイオリンコンチェルトG-Moll

バイオリン初心者にかなり有名で親しまれている曲で、スズキの5巻のメインです。

たくさんの初心者のかたが悪戦苦闘しているのを聞きましたが、このあたりまでくると結構弾けているように錯覚している人が多いことに気が付きます。

一音、音がずれたら、それでやり直しだという真剣勝負が必要です。つまりゆっくり間違えないように練習しなければ、いくら流して弾けても、それは弾けたことにはならないというのがポイントです。

4巻のコンチェルトも難しいかもしれませんが、シンプルにややゆっくり目に練習しましょう。

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やたらとゆっくり弾く必要はないのですが、弾ける速さ、音がずれない速さで練習することが大事です。部分練習で一音一音丁寧に弾くことも必要です。

ちいさい頃、教室の発表会は丸暗記させられていましたが、指と指の間隔の感覚を丸暗記して、伴奏と曲の流れを覚えて完璧に弾いたのを覚えています。

ただ、私はこの曲の短調の響きがなんだかとても悲しく切なく感じるのです。子供心ではありますが、毎日哀しいツライことばかりだったのでしょうか?練習は決して楽しいばかりでもなかったような気がします。今でももの悲しいのです。哀愁を感じます。

大人になるとただ音程とリズムを完璧に弾くという試みが、どんな響きの音で弾くかという風に変わったように思います。哀しい響きには変わりないのですが、その音の飛ばし方、飛ばす角度を意識的に弾くようになりました。エルマントーンなんかで響かすとなると色んな意味でたまらないですから、自分なりのビバルディの理想があるんですね。バロックの曲調とボーイングも考えながら弾くとなおさら理想に近づけます。