FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

信心強盛の落とし穴

世の中の宗教は星の数ほどあって、みんな不幸になっていく。
そうかといって葬儀や埋葬はしなければ落ち着かない。
そこで一応幸せになる伝統仏教を例に信心強盛の盲点を見つけたので記事を書いてみた。
日蓮正宗の御書全集には、強盛という言葉が約60回でてくる。あの人は信心強盛だとかいう会話はありふれている。
しかしもともと、強盛という言葉は、よいほうにばかり使われていない。悪心強盛という表現も何回も登場する。悪い宗教を熱心にやるのも強盛だし、悪い心も強盛なことが多いのが末法である。
日蓮正宗の本尊は実に素晴らしく、総本山の大御本尊など宇宙的な素晴らしさである。
にもかかわらず信徒数はわずか八十万である。
日蓮が明言しているように正しいほうが数は少ない。これは真理真実であって異論はまったくない。悪は多けれども一善に勝つことなしである。
問題は、伝統仏教貧困層障がい者を足蹴にしたり門前払いにしたりしてコミュニティから排除してきた歴史と悪い意味での実績だ。
そしてそこにこそ強盛な信心というのが暗躍している。釈迦も日蓮貧困層障がい者を排除しなかったが、あやしげな自称仏教者たちは信心強盛であるがゆえと貧困層障がい者を受け入れずに排除してきたのである。
その場合の信心と悪心は見事に一致している。
ホームレスや困窮者の問題などが社会問題として取り上げられるが、その原因こそ信心強盛、悪心強盛である。それで精神を病むことも多い。
信仰を持つことは大切な人間としてのつとめであり義務であるが、きちんとした始祖、聖人の教えを正しく学んで行動しなければ、たんなるひとりよがりの私利私欲である。
貧乏人はいらないとか仕事ができない人はダメだという始祖に背いた真面目気取り、信心気取りこそが、多くの社会問題を作っている。
そもそも、あらゆる生命の尊厳を護る信心こそが宗教の大前提でなければならないと思う。
偽善や姑息な貧困層障がい者いじめの邪宗教はいらないし、始祖に背いた伝統仏教もまた相当罪深い宗教だといえるだろう。
聖人たちは貧困層障がい者こそをいつくしみ励ましつづけたのである。
日蓮正宗大講頭戸田城聖も貧乏人と病人を救うのが真実の宗教であると明言している。
人類史を振り返っても同じである。
何千年ものあいだ貧乏人と病人が聖人とその弟子たちに救われてきたのである。
それを忘れたり意図的に嫌ったりしている聖職者たち、公務員たちは、まったくその資格がないと言わざるを得ない。
そういうわけで私は宗教熱心や信心強盛というやつが大キライである。
そういう人たちはまずロクな信心はしていない。私利私欲の自己満足である。