FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

法華経信解品の長者窮子のたとえ

f:id:FujiYama:20210711183258j:plain今日は日蓮正宗の御報恩御講にあたり、寺院を参詣させていただいた。
寄進のあった和太鼓の響きがとても素晴らしいもので、老舗の本物の腕前はよくできたものだと感心した。普通の末寺ではほとんど太鼓はひとつしか使わないが、今日は総本山よろしく二つ同時に響き、とても嬉しかった。
御書は信心を継続して深めることの大切さを説いた部分で、日々功徳を感じて継続させて頂けることに改めて感謝の思いを深くした。
そのあとDVDで法華経信解品のたとえを拝見したが、改めて少し日蓮正宗の育成について難点を感じた。法華経のたとえは題目を最高の宝にできるように説かれたものなのだが、浅はかにも教育を受けさせずに就労すれば幸福になると教えているむきがあるのである。
それぞれのご家庭の事情にもよるが、きちんとした教育を前提に技能職を選ぶこともある。
しかし創価も同様に働いて収入をえて出世することが第一の目的になり指導内容になると、とにかく教育費をけちる。浄土真宗だってそれはあまり変わらないのだが、必要なものを徹底的にけちる。
みんなが安い給料で働いてくれたら助かるという経営の立場からすると高卒ばかりで好都合だが、報われない努力を推奨している。
やはり信心の努力が一番確実に報われる。
文化的なことや教育費を最大限有効に活用できるのが信心だなと思う。信心がないと、ただお稽古をして大学を出るだけではもったいないからと思う。お稽古や学歴が無駄かと言えばそんなことはない。結局信心の一部分を学ぶのだから、参考になったり技能が身に付いたりする大事な出費だ。
せっかく信心をして題目を唱えて努力できるのだから、日蓮正宗信徒は様々に挑戦したらいいなと思う。
信心をして自分を磨いていくのが長者への最短コースだと判れば、世間の人達は本当に気の毒だなと思う。長者は現代の富裕層とはまったく別次元の人間として幸せな人のこと。日蓮正宗が一番幸せだと体験して気が付いた人のこと。
宗教の害毒で意識がはっきりしないまま、周囲の思惑に動かされながら、ひたすら走り続けて消耗するだけの成功にはあまり意味がない。おかしな題目や国の規範にがんじがらめになって、そのなかで懸命に私利私欲に耽る人間がわんさかいるので、人間ほど不自由な生き物はいないのではないかとすら思う。
仏教は本当に深いものでもあり、精緻なものでもあり、完全な真実を説いたのだが、各派ともまったく実現性がない。経費をかけて装丁を整えることがせいぜいやっとのことである。
たとえば音大で音楽表現を習得して舞台で披露するようなものだ。それは形式装丁と再現を忠実にしようとするものだが、原典とは微妙に異なる。
伝統音楽が素晴らしいのは、原典に肉薄してこそなのであり、ほんの少し微妙にずれるとアウトだ。
きっぱり日蓮正宗で真実の原典を体感したうえで、積み上げて血肉にしていくのが最短だろう。たとえばバイオリンだと12歳くらいまでに最短でレパートリーを完璧に習得しなければならないから普通の知覚や感覚では真のビルトゥオーソにはなれないのである。
富裕層礼讃と運命論ですべて片付けられるユダヤキリスト文明で、真実は無視されている。半端な仏教もどきの僧侶ばかりがもてはやされて自己顕示欲を満たす。
各分野方面で専門家や真打ちが限定的に富裕層を中心に育成され、経費ばかりかけて私利私欲を追求し、さっぱり世のため人のためにならない。うまい人はたくさんいるが事実ビルトゥオーソは出ない。
あほな富裕層がいくら経費をかけても、ものの役に立たないことが多すぎる。
毎日の地味な積み重ねを精一杯楽しくできる豊かな心を育むものこそが本物の仏教であり、そこには個人負担の経費など必要ない。
日蓮正宗をやらずに一生懸命努力してどんなに成功しても結局は徒労に終わる。ハーバードやオックスフォードの猿知恵では人類ひとりひとりの不幸はとうてい救えない。
佐渡の寒風のなか満足に食べるものもないなかで日蓮は開目抄にこうしたためた。「日本国に第一に富める者は日蓮なるべし」と。