宗教の教え、教義そのものと、その使い方はとても複雑で、現実の日々の生活の中で、その正しい理解や実践は難しい。
それは末寺の僧侶や寺の古株のたいそう教学を学んだ人たちですら難しい。
わたしはそのあたりをA純正教義或いは純正教学とB現場対応慣行或いは経営的教義教学として整理して考える必要があると考えるようになった。
法華経という法が救う一切衆生は、今世の間に救われる順縁と、来世で救われる逆縁に大別される。
素直にお題目を唱えるのが順縁だという純正教義はしかしながら成立しない。
大石寺の大御本尊に参詣すると順縁だという純正教学も実際は難しい。
Aさんに言われたら素直にお題目を唱える人がBさんに言われたらお寺を参詣しなくなる。
Cさんと会食して大石寺参詣する人がDさんに供養(金銭)しろと言われたらお題目をあげることをやめる。
Eさんはお題目を唱えて大石寺参詣していたが、Fさんに陰口を言われたら御供養しなくなった。
例えばではあるが、信心は純粋にやる人でも、対人関係の相性があり、自発的にやる人に命令することが侮辱になり、不本意な境遇を攻撃すれば排除することになる。
そういう事例は掃いて捨てるほどある。
問題はそういう事例すべてを本人の信心の問題、逆縁だというB現場対応慣行或いは経営的教義教学である。
この視点がなぜ重要で記事にするべきものであるかというと、日本人の1%未満しかいない日蓮正宗信徒を減らすことと、折伏対象が狭くなることである。
まずは勤行して大石寺参詣を続けていくなかでじわりじわりと時にはわかりやすく功徳を感ずる深い味わいを僧侶信徒が絶ちきってしまう。
末法の苦しんでいる人間なんてすべての人間だとすら言えるものを、1%未満発の微々たる折伏をさらに減らすのは罪悪だ。(無論信教の自由は前提だが)
身体の問題や事情から学び直しが必要な信徒がいても、今すぐに稼いで御供養しろというBの教えを口にする僧侶や講頭などがいる。
無理をして稼ごうとすれば重体になる危険もある信徒に対してカネを出せ、信徒が死んだって読経してやれば構わないという考え方だ。むしろ死んでくれたら寺院収入だ。
こうなるとカネを出す信徒は順縁、カネのない信徒は逆縁だという仕分けがまかり通る。
そもそも下種する対象を収入や肩書きで選別している人たちが多い。
住所不定、無職、連絡先がない、様々な事情は千差万別で、そういう人たちこそ菩薩が助けるべき対象だが、Bの考え方の僧侶役員はそういう対象を厄介者として忌避している。
ざっくり選別の仕方として、僧侶にへつらえないのは創価学会、障がい者は顕正会、猊下の足にひざまづけない僧侶は正信会という具合にして、日蓮正宗信徒は公務員有資格者と富裕層あるいは高額供養の健常者だけの利益率追求組織にしているように見受けられる。
生きている間に成仏する順縁を限定してクレカの審査よろしく面倒な信徒は要らないという意思表示をする僧侶や役員も数多く存在する。
選別の権利権限がある僧侶・役員が、地位や収入で足切りをする。
目障りとばかりに癇癪を起こしたりして追い払う。
面倒くさいものは逆縁だという慣行が教義教学に優先している。
黙ってカネを置いていけ。
おとなしくカネを出せば大目にみてやる。
弱者など追い払ってどこでだれが殺したって大聖人様にはもう口はない。
日蓮正宗には、純正教学は表面的社交辞令や知識として書物が残っている。
折伏にならない教義教学は戯論だ。
法華講が増えず育成事実のない教義教学は間違いである。
古典の正しいほうが少ないという当たり前の常識はあるが、丁寧なら逆縁はそれほど多くないものを、中立や順縁の人たちをガンガン逆縁に仕分けるというのはカルト性の証明だと判断するのがノーマルな「日蓮が弟子旦那」「日蓮と同意」である。