FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

至福の音感のもどり 自由と音楽

幼いころ教会でオルガンの伴奏で讃美歌を唱い、バイオリン教室で合奏していて、音感はふつうだった。
母から厳しく音程をしつこく修正されて、10年で先生に音程を指摘されたことは純正五度と数回しかなかった。
老舗オーケストラと音コン勢との弦楽合奏は自然と音感がつく。
緻密で繊細なバイオリンの音が当たり前だった。
オールドやモダンバイオリンで和声、低弦や管楽器との共鳴、作曲家ごとの音色をある程度まで堪能した。

グレたわけではないのだが、バイオリンを禁止された後、日本のロックやニューミュージックに流れて、いわゆるキチガイと化す。
20歳から左手の形もガタガタになり、バイオリンで音が狂って、微妙なズレが当たり前になった。
言い換えればヘタになった。

ほんの2年前から左手を1から作りはじめた。
微妙なズレを元通りに且つ正しい形に修正する作業は心底楽しい。
さっき青年期に聞き慣れたメジャーアーティストのニューミュージック系ロックを聴こうとしたら、うたいはじめ3秒で気持ち悪くなった。
吐き気すら催す。
音の入りが完全にズレている。
こんなにズレたものを楽しんで聴いていた自分がかつていたというのはショッキングなこと。
歌は自由に楽しく歌えばよい。
そんな声が聞こえてくる。

音楽は自由の象徴として見られることが多い。
しかしそれは大衆音楽やジャンルの問題だ。
きちんとした楽しみ方をわきまえている音楽は稀少である。
そしてその稀少な音楽だけがノーマルだという動かしがたい事実について真摯に向き合うことができる現代人もまた稀少なのである。
音楽ほど制約の多いものはなく、厳格なしきたりによるものはないかもしれない。
自由を求めるならば音楽はまったく向いていない。
音楽こそ人間らしい心の自制と慈愛のある営みであり、大衆や非人の類いにはとても楽しめるようなシロモノではないのかもしれない。
来世こそ人間に生まれてくるように祈るしかないだろう。