FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

形式がなぜ大切なのか?日蓮正宗と派生宗教の違い

みんな誰でも自由が好きで気ままに楽しみたい。
だからコピー本尊で誤魔化して、わがままに満喫するほうに流れる。
大学でも講義は欠席して遊んで試験勉強にノートはコピーを使う人たちのほうが多い。
いや、派生とは言っても正統性があるとか、宗祖の教えに忠実だから、むしろ日蓮正宗よりよっぽど正しいのだとか。
そう思って創価学会顕正会や正信会をやっている人たちがざっと概算1000万人ほどいる。
熱心にやっている人たちだけでも300万人以上いるかもしれない。
正信会なんて日蓮正宗の本尊がまんま安置されているだろうから、正しい主張は一応記録されて一義を果たすことも間違いない。
それぞれが一義を果たすという一面を持っているので、政治家の綺麗事とか商売上のキャッチみたいなものに騙されやすい人たちがたくさんいるということだ。
貧困で騙されやすいだけではなく、知的水準があっても、収入や資産があっても、好き勝手にしたいから、勤行なんてしたくないし、住職や猊下に上納金を励んで、どうでもよい他人を助ける手間な折伏なんてできるわけがない。
正信会の昔の純粋な主張もどこへやら、寺が荒れているそうだ。
公明党議員の不祥事は定番化。
みなさんがボロい商法に流れることになる。
結局、大御本尊と猊下という信心の基本形式、大石寺から離れたことで、心に隙が生まれる。
曼陀羅があろうが、上人の直筆本尊があろうが、お題目を唱えようが、みんなゆるんでいく。
気合いを無理に入れなければならないから、不自然な心理になり、肩に力が入って、心身のバランスを崩す。
我見に陥ることが、信心の狂いになる。
信奉するセンセーや僧侶の我見を絶対視するなんて危険の極み。
世界的な評価の内容も、大石寺の正統教学から言えばたいしたレベルではなく、せいぜい身延派教学に対する評価。
心を見つめて現実の人生で悟っていく上で、信心を妨げる教えや御書の解釈が氾濫しているのだが、そこはご都合主義で向き合おうとはしないルーズな宗教がたくさんある。
純粋な政治的宗教であり私利私欲のための宗教に、綺麗な看板をかけて、テレビで派手に勧誘宣伝を展開するに至ると、日蓮の教えと著しい乖離が歴然としている。
日蓮正宗の僧侶は完璧な応対ができないこともあるが、いかに間違えても形式を護る。
大御本尊と猊下のまします大石寺というコアを護りながら、一人一人に救いの声掛け(折伏育成)をすることでしか、成仏という心は生じない。
なんとなく幸せとか、満足だとか、楽しいとか、一時のはかない夢だけを成仏だと勘違いするらしい。
御書なんて別にいいんだよ、解釈はわれわれが正しいんだから、センセーが正しいんだからというその瞬間に、恐るべき信心の退転(脱落)は決定する。
猊下は間違っているのだという我見や一面的正義についつい迎合してしまう人たちは、日蓮と別々にお題目をあげて成仏するという暴論を主張する。
大御本尊は日蓮の魂であり、血脈が通っているかどうかで本尊とお題目の効果はまったく別。
各派とも悪影響が出る身延と同じ永不成仏となる。
三大秘法といい一大秘法といい、絶対にはずしてはならない形式があることを知るべきだ。
屁理屈をいくらこねても信心でおかしくなって損をするのは、各人の魂である。
より一層世相も乱れ、政治も不道徳が蔓延する。
ただ元気があるうちに貢がせようというだけの、信者の信心なんてどうでもよい政治的宗教団体の腐敗堕落をありのままに観るべきだ。
なかなか正しい信心は難しい。
なかなかできるものではない。
なにしろ指導者と本尊が別物なのだから。

因果律の最深、最奥は大石寺の大御本尊への信と猊下との勤行である。
これに逆らうと、どれだけ善事善行を重ねて努力しても、トータルよいことにならない。
裏を返せば、大石寺信仰さえしておれば、悪事すら善行になる。
世間の善悪そのものが、なんとでも言えるものであり、根本の善悪をわける原点が大御本尊だからである。
本当の気ままとか自由という幸福は、広く大きな魂をどのくらい体感しているかによって変動する。
自在に遊戯(ゆうげ)する魂が無限のもので確立すればどんな境遇の人でも幸福なものだ。
わざわざア◯なセンセーや勘違い坊主の個人的野心や怨みと同調して、大切な心をゆがめてしまってはもったいない。
日蓮正宗の形式は明らかに心を第一にしている。
各派の形式は経営を第一にしている。
寄付・献金・布施は経費の範囲なのかどうか気を付けなければならない。
大御本尊と一体感をもって指南する猊下は信心のための指南が基本である。
怨みと野心の指導者たちは、勲章や称号が一番である。
献金のため、政治資金裏金のため、そのための広宣流布という美名に踊らされるのは愚かだ。
一人一人の心を幸福にして、その幸福な心でよりよい人生になっていくというのが、信心の基本形式であり、かけごえだけの空元気では不幸になる。堕落の方程式は採用できない。暴力的圧力団体は脱出しなければならない。
とりかえしがつかない。
時間は進むだけで戻らない。
人類史、仏教史、日蓮正宗史を正しく学んでみるとなぜ日蓮正宗の信心に形式が存在するのかひとつひとつ納得できるだろう。
日蓮正宗の形式それ自体が法だ。