FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

法華講はなぜ坊さんにへつらえるか

寺と檀家の関係は明治以降変わり続けて、それもそのはず国の施策が激変をしてきたから、昔のように庶民一同にお坊様と頭を垂れるということはなくなった。
行政権がほとんどなくなり、宗教はおおまかに独立的な立場で公益を踏まえた営利儀式に邁進している。
檀家や信徒でなければ、無関係なハゲだとか偉そうなイヤなヤツというならず者の意見が主流にとってかわり、国民の総意が坊さんは厄介者ということになった。
まず滅多に寺には寄らず、年に一度寄ると真面目だとかいう国民がほとんどである。
葬式や法事でがっぽり儲けてあとは知らん顔というのもあって、仏教全体が地盤沈下した。
その時代にあって、日蓮正宗の檀信徒は足しげく寺に通い、毎月の諸行事で住職の説法を傾聴し、熱心に信仰に指導を仰ぐ。
へつらっているのではなく、信仰している。
賄賂をしてへつらっている信徒がまったくいないわけではないだろうが、そんなものでは続かない。
信心が清らかで純粋な興門ならではの、求道心がなければ、僧侶に頭を垂れることはできない。
教学が浅いと屁理屈や言葉字面に終わり、身延や学会の解釈レベルに終わる。
信心信仰を学ぶ、会得するために、僧侶の儀式やしきたりを含む指導に従っていくのは、理にかなうやり方で、勉強でも稽古でも先生の指導を聞くのと同じだ。
間違いないのは、先生や師匠に習うことで、先生や師匠が邪であっても、まずは習う。
へつらうというのは、習う側が邪なことを意味しており、キリストの教えでもへつらいは悪いものだと指摘する。
大石寺の大御本尊と遺物を直接拝して口伝えで日蓮の教えを伝えてきた僧侶たちから習うことでしか、信心は成立しない。
法華講はへつらってできるものではなく、正しく本尊に境智冥合する正式な伝承文化を唯一保存している日蓮正宗僧侶とともに信心に励むことでその意義を満たす。
その意味からはまず僧侶が折伏に邁進する姿を示すことが肝要なのである。
いくら発破をかけても、新興宗教もどきになって、発展は難しいからだ。
僧侶も猊下にへつらうだけでは信心にならないから、なかなか大変な仕事であり修行だが、衣食住の心配なく信心に励むことができる無上の幸福が担保されているのだから贅沢を言わずに折伏育成に精進すると御報恩になってよいだろう。
教学知識は完璧であたりまえで、慈悲を具現化する姿に法華講はますます奮い立つのである。
漢字をたくさん知っている程度の坊さんたちでは、もはや現代人から信望を広く維持することは難しい。
あらゆる衆生に救いとなれる唯一の大御本尊を伝える慈悲の行いがどれだけ実行できるか?
学ぶ側、修行する側が道を求めていないものは、道に入れず逸れるのが道理である。
理屈と発破だけでは神官や獄卒に同じる逸脱を生じる。
誰しも信心はなかなか難しい。