日蓮宗と日蓮正宗の違いは、神道を祀るか否かで説明はシンプルであり、日蓮宗が伸びたというより大衆迎合で品格が劣るほうが、弟子信者が多かっただけである。粗悪品は安くて手軽で蔓延しやすい。
しかし日蓮正宗と創価学会と顕正会というのは、出家僧と在家宗教家の違いで、見た目は袈裟衣かスーツかの違いであり、素人のほうが人気を集めて巨大化した。
普通に考えるとプロの僧侶で日蓮様の事績が残る日蓮正宗に心服随順するのがあたりまえに賢明だと思うが、大半はそうはならない理由について考えてみた。
1妻帯と御法主絶対
日蓮正宗は教義が完全無比であり、少なくとも仏教の各家諸派が限りなくある中で、最高峰である。
その教義上の絶対的優位性から日本史のなかで、幕府の有力者のつてで法主が将軍と2人きりで面談できるようになった。
寺社関係者は将軍から遠ざけられていた時代にあって破格の待遇である。
こうなると日蓮正宗の僧侶は特権階級。
その後維新で妻帯を許され、僧侶や法主は妻帯すべきではないという意見がありながら、欲望の堤防決壊で現在に至る。
特権階級は、安い袈裟衣は着れない。
軽や大衆車には乗れない。
スーパーの不揃いな果物は要らない。
可愛い子供や孫に時には100万円単位のお小遣いをあげなければならない。
わたしは独身なのだが、仏道修行には女人禁制がほとんど必須だと思う。
女性と交際していて、仏道にそぐわぬことが頻発してイヤ気がさした。
遊女(とわり)をよせたくもなきと大聖人は表記されたが、宅内にたとえ真面目な女性であっても、いれば目障りである。
身近で一番マシだった女性は母の母、つまり祖母で、中級士族の立ち居振舞いと言葉遣いにきちんとした教育があったから、それほど悪い気がしなかっただけで、祖父からすればとんでもない女でしかなかったのだから、結局女性と同居する気がしないのは同じことである。
出家が妻帯というのは、本来警察が泥棒と同じことである。
御法主が許されているからと衆議で反対しない状況は、もともとの正しい法主絶対主義とは異なる。
李下に冠を正さずとは、僧侶が妻帯しないことであり、現在は李下に冠を正しどおしなので、日蓮正宗や僧侶仏教は怪しい仏道のまったく信用のない金満私利私欲宗教ビジネスだと広く認知認識されている。
せっかくの教義や本尊はそのために地に落とされた。
誰がどう考えても日顕上人と池田大作は対等な並びではないものを比較された決定的な条件は妻帯である。
天皇や将軍とそこの印刷屋や高利貸しを同じ立場だというのに似ているが、それよりもさらに上の出家僧という立場はもはや成立していない。
2経営集金最優先と御法主絶対
かつての本山はあまり賑わいもせず貧困に近い生活を修行としてこなし、信心そのものを第一にする伝統文化が継承されていた。
どこの誰も、お金の話などしない。
気持ちを包んで御報恩の誠とした。
気持ちには気持ちでと真心でもてなす寺院。
妻帯だけではまだそれほど贅沢には至らず、次第次第に裕福な寺院運営に流れていったように見受けられる。
気が付いてみると中級から上級公務員待遇でなければならないという仕組みが出来上がり、末寺では日常会話としてご供養が一番だということになった。御法主上人猊下は時折財政的基盤について触れているが、末寺ではご供養イコール金銭という風習が定着している。
現代人はバブル崩壊後のグローバリズムの中でどんどん収入を減らし、富裕層だけが人間らしい生活を送れるようになってきており、個人の尊厳は守られずに独身の人が増えてその存在価値や意義を感じられないようになってきている。
この現在と将来にわたる人間性の危機の時代、人口の95%程度が切り詰めたゆとりのない生活を送っているところに、信心イコール金銭、信心イコール地位、信心イコール身なり、などの社会階級による差別的な教えをメインにすることがどういうことか考えなければならない。
私はキリスト教教会や浄土真宗の親族などの会話を聞いていて、一度も寺院や教会への供養や寄付の話や額面の話なんて聞いたことがなかった。
はっきり言えば、下品であり、下衆であり、不信心そのものなのである。
そういう話をすること自体が憚られるデリケートな話題であることが理解できない賤しい人たちが、日蓮正宗には溢れかえっている。
創価学会ではまず金額の話も公開発表を除いて聞いたことがない。顕正会は定額制である。
つまり街頭折伏とはカツアゲであり、信心のすすめとは貢君になるようにすすめることになり、本来の人間としての品性のある信心修行とはまったく別のものが蔓延しているのである。
その火元は猊下をはじめとした僧侶なのか、その周辺の寺族なのか、そのあたりの特定は無意味であるが、間違いなく信徒間では下衆な不信心が横行して、低所得階級のお祓いを繰り返していることは実際に確認をした。
財産を巻き上げるようなことはダメだと猊下は明言しているが、実際にはそういう潮流なのである。
3良心と不信心のはざまで
だれもが魔と戦いせめぎ合う信心の世界であり、貧乏人も信心が多少厳しいのは同じである。
しかしあまりにも荒んだ弱者に対する暴力としての貧乏人いじめのような言動が横行するのは大聖人様に対して顔向けができない謗法行為に該当する。
折伏育成という日蓮正宗の骨格が集金を基準にしてなされている現状からは、宗門の発展はない。
信徒が奮起してできる範囲を超えた圧力がかかっているからである。
資産は形成できないし、婚姻はできないし、家を買うこともできず、洋服はボロボロ、食べるものにも事欠くという信徒さんがたが、にがにがしく目障りであると追い払われるような寺院であれば、仏教というのはそういう宗教であって慈悲という言葉はないのだなという感想を持つ人が多くなる。
大聖人様は釈尊の出世の本懐は人の振る舞いと仰ったが、貧乏人や弱者を鞭打つのが人の振る舞いとはいいがたく、日蓮正宗が非人道的なカルトに位置づけらることは不可避である。
今の寺院で見かける無数の不信心の根本原因はおカネである。
池田大作がおカネで間違えたのだという正統派の代々からの信徒さんがおられたが、客観的には池田大作はおカネで成功している。
お金のことを言わなければ人は集まるのだ。
人が集まればお金は勝手に集まるのである。
まず御本尊に、寺院に人が集まるかどうかが第一である。
祈り(唱題)が第一であり、説法を聴くのが第一であり、深い喜びが第一であるからだ。
実際におカネが一番だという人たちが多く参詣している寺院は参詣者が極端に偏っており、それ以外の人たちはまったく寺院に足を運ぶこともなくそれきりである。
おカネのことを言うのが貧困の外国人や障害者しかいないような尊い寺院には、参詣者はいつも違う人たちが次から次に訪れているという傾向がある。
どこの家庭でもおカネを一番にするのは女性である。
寺族妻帯というものは、寺院を下衆な拝金主義者で埋めることに決定的な役割を果たして、仏法破戒の主役として跳梁跋扈しているのである。
おカネのことを考えずに、唱題を満喫できるかどうかというただ一点に限定して、つまり信心根本に考えるならば、日蓮正宗と仏教の衰退は当たり前すぎるほど当たり前であり、みなさんは僧侶寺族ほど下衆ではないのである。
かくして新興宗教が全盛となった。
私は日蓮大聖人の正しい教義と本尊を捨てることなく、貴い寺院とのご縁をいただいて少ないご供養で修行をさせていただく幸福な道を選択することとなった。
正しい仏教、きちんとした信心を積むために、寺院を選ぶ必要があるということ自体は、本山の運営指導に責任がある重大な事態であると思う。
広宣流布という上流階級への下種だけではない仏道を行ずるものとしては、現況は非常に憂慮すべき時代である。
天照絶対主義からユダヤキリストグローバリズム絶対主義に移行するだけでは、日蓮正宗の信徒はみなさんがただ苦役にあえぐだけの貧乏くじに終わるであろう。ざるで水をすくう指導。
仏教が拝金主義に変異してからこのかた日蓮正宗だけが正しい教えと修行であったものが、日蓮正宗までもが変異転落してしまったのだなと思うことが多い今日この頃である。