唱法華題目抄に曰く 「通力をもて智者愚者をばしるべからざるか。唯仏の遺言の如く、一向に権経を弘めて実経をつゐに弘めざる人師は、権経に宿習(しゅくじゅう)ありて実経に入らざらん者は、或は魔にたぼらかされて通を現ずるか。但し法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず。」(御書233)
素人の浅知恵では、利根と通力は宗教的素養と超能力と表現するらしい。
しかし、教養全般と生まれつきの性質、おおまかに生まれが利根であり、通力は御書に声から境涯を観る判別力(一例)だとある。
だから、日蓮の教えは自語相違そのものである。
ご自分が本仏だという利根をもって寿量文底秘沈という通力の極みを悟ったというのが立宗令法久住。
鬼子母神の題目はガラガラと濁る。
身延の人相は山野の獣の相を現ずる。
言葉に騙されることと題目を盲信することは同じだ。
つまり利根と通力こそ信心なのだ。
もちろん日蓮は権実の話をしているが、実教に入るということを具体的には日蓮正宗への入門とは言っていない。日興嫡嫡の座主は日蓮正宗のはずだが、近年その立証は難しい。
当然、法華経と寿量文底秘沈の題目が実。
そこで利根通力を否定すれば、どの宗派でも無所属でもよいことになる。
では、利根と通力を極めればどうなるか?
仏法に相違して己義を構えているかどうかがわかる。
逆に言えば、己義を日蓮正宗の教えやしきたりとして蓄積することにいつの間にか慣れているのだ。通俗的な間違いは多い。ありふれた間違い。
そしてそこを指して日蓮は悪しき弟子を蓄えるな僧俗ともに地獄におちる(趣意)と言った。
教科書の法理そのものは変わらない。
しかし悪弟子の定義は時代や政治などで変遷する。
昔とまったく同じように悪弟子かどうか判別しようとしても、利根通力がわからずに正しい判別は不可能である。
利根通力が悪いものだと言えるのは、浅薄な人たちへの戒めとしてであり、むしろ極めていくべき智恵であり、観心修行は日常の見極めに過ぎない。
一念三千と観心ができない利根の場合には、利根通力に依れないだけで、「べからず」は禁止ではなく正しくは不可能と解するのが適切だと見る。
己義が充満している日蓮正宗寺院その他のお題目宗において、法門のすべては公開されずそもそも指導者すら理解できていなくて邪正は現場で判別しきれない。
本山で個別に検討できるわけでもなく、結果として信徒の話は聴かず僧侶だけの指示となる。
お題目だけに依れ、日蓮の利根通力からの教えのみを信じろという意味あいだろう。
僧俗ともに即身成仏であり、しっかりした明判の修行をした上で、利根この上なし、通力も確実となれば、己義を己義と破ることは慈悲となる。
しかし、それは法主の専決事項なので、その末寺信徒の慈悲で新入門者が増える方向にはならず、むしろ古参に指摘する信徒が寺院から遠ざかり離檀することになり、公布は後退することになる。
縦の一本、筋目だけで信心がすべて完結すれば、世法がわからない坊っちゃんお嬢さんの理のみの偏頗信心だから、書籍を読み漁り社会で多少揉まれて内外共に究める必要がある。
純粋な信心はむしろ本尊から離れた時にその真価がわかる。
魔の通力を禁止したくとも、現実に不可能である。
能奪命の魔にやられることがないように、森羅万象を貫く法を奥底で恒に持つ永遠の宝土は不壊に修行するべきである。
戒体厳護など死後は完全に無益。存命していても失敗例が多すぎて宛にできない。
一生成仏で我が魂が仏と一致することは決して難しくない。
口八丁手八丁でデタラメな勧誘をして人を地獄に案内するだけの法華講衆は、むしろ自前生来の利根を自覚し、拙い通力を磨くための唱題に励まねばならない。
折伏しているつもり、唱題すればなんでもよいでは、絶対に成仏などしない。
法華講で地獄なら死後も地獄。
唱題以外遊楽なきなりと皆堕獄、地獄の仏が好きだという趣味が理解できない。
法門だけ理屈だけの題目中毒症は不幸だ。
とんでもなくマニアだが、日蓮やキリストの命懸けの利根通力は確かに桁外れだから面白がってファンがつく。
対人関係がうまくいくかどうか、利根通力の引き合う人かどうか見極めるのに役立つ修行と言えなくもない。