今日、小雨の予報で出掛けたところが、本降りになったので用件は後回しにして、お寺で唱題をするべく門をくぐり唱題。
そこへ老人が手を合わせているのを婦人が声をかけると、昭和に寺に来ていた創価学会員だという。
お話を伺うと、もう創価がおかしくなり嫌になったと。
ネットでも井戸端でも最近の創価はおかしいという声で満ちている。
そう気付いたら、お寺にお越しいただくのが1番だ。
僧侶に相談してきちんとした信心に切り替えるのは早いほうがよい。
学会のニセ本尊は拝めば拝むほどおかしくなると皆が口を揃えている。
まともに拝める人なんてもはやいない。
本物を知っている人からするとあんな安っぽい偽造の模造品は穢らわしくてゴミクズ以下だ。
法脈が途絶えたニセのコピーには魔が棲みついている。
僧侶への偏見は脇に置いて、すっきり澄みわたる信心の喜びを懐かしく思い出した方や、2世3世で苦しい方々は、1日もはやく罪障を捨ててお寺へお越しいただきたい。
統一教会とは違うという想い、お題目と本尊は同じだろうという思い込み、指導者の口車に同調してしまう感覚がある人たちは、苦しくても喜びがなくても公明党が間違っていても、学会本部の教義に矛盾があっても、身動きがとれない。
地域の顔見知りなどが気になる。
自縄自縛。
ただの新興宗教よりさらにタチが悪い。
お気の毒な底無し沼で唱題すらまともにできない。
頑張ったぶんだけ苦しい創価。
やればやるほどツラい創価。
すっきりさわやかな大石寺の大御本尊様に、猊下様と読経唱題して、きちんと成仏する軌道に入らなければ、すべてが悪く出る。
毒気深入。失本心故。
信心に毒を混ぜた師匠とお別れすることから、喜び溢れる信心生活は始まる。
正師は歴代猊下で間違いない。
大御本尊様とともにあるからだ。
聖教のデマを見抜き、美しい大石寺で法灯の伝承を体感して歓喜溢れる信心へ。
いざ。