FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

日蓮と日蓮宗各派の違い

天皇観の多様化が、戦前と戦後の大きな違いで、自由主義は戦後のキリスト文明の影響とあわせて完全に神道と皇室への見方を変えた。国教会を伊勢神宮ユダヤ財閥およびキリスト文明への忠誠という変異型に移行させたため、日本国のくくり、共同体は富裕層とエリート層に限定され、一般大衆を切り離した。
日蓮の時代の天皇観、仏教と神道の位置関係による御書の記述をそのまま読むと、現代日本人の感覚と大きくずれる。
御書をそのまま読める臣民は存在せず、皇室も財力資産ベースの自由と基本的人権を重視している。
王仏冥合という記述が指す状態(政治状況)は具体的にもはや存在可能性がない。
順縁公布を皇室主導の布教だと解釈することはそもそも無理があるのだが、思い込むとわからない。
天皇の信仰が日蓮宗各派のいずれかになることはまったくない。
政府の伊勢採用路線(仏教各派混合型)は数千年の間不変で、メインがどこまでも神道であり、皇室個人としていずれかを信仰しようとした経緯痕跡はあるが不可能だった。最も無理があったのが、純日蓮宗である日蓮正宗だ。
伊勢の真言採用、華厳採用、浄土採用などは政治と宗教を非論理的不公正の玉虫色にとどめ、伊勢皇室の繁栄を第一にするための方便であり、それと同じ扱いとして日蓮を利用する。
国際社会秩序と財閥絶対主義の現代の自由主義文明でそのことはさらに確実になっている。
天皇皇室への怨嗟と政治離れ仏教離れは、そもそも日蓮の目指した万人の幸福と民の願いが一致していることの裏返しである。
日蓮宗各派は神道をメインにしている。
日蓮日蓮正宗神道を叩き潰すほどの勢いをもって日本の仏教国化を指向していたが、それはもはや上代の昔話であり、各派と同様存続のために神道に従う形をとる。
日本国が神の国であると同時にもはや神がいないことこそ、末法の仏教、特に日蓮正宗が起こった論拠である。
現代日蓮正宗は教義的矛盾をはらんで日蓮宗各派と同化し、その存在意義はなくなった。
日蓮の遺した教えと日蓮宗各派の教えは別物になった。
各派ともにいずれもお題目を唱えて人間らしい心で社会大衆に貢献しようとする善い面はあるが、日蓮から日興、日目と鮮烈だった天奏(天皇に対する国権まるごと日蓮宗化の説得折伏)は滅尽した。
皇室や幕府要人の権威をかさにきて布教するスタイルを順縁公布と呼ぶ人たちのメガネには、そもそも日蓮がやろうとした万人の幸福のための皇室の信仰が抜け落ちている。
大正天皇皇后が神道をやりながら日蓮正宗を同時に並行してやることを賛嘆する信徒がいて、わたしは唖然とした。
公務としての神道の儀式と日蓮正宗の信仰は両立しないことをまず明確に認識できない時点で、皇室の信仰は成立しない。
本人の成仏以外には皇室を離脱してまで日蓮正宗をやる意味もなく、日蓮正宗は各派同様神道に従属する信徒ばかりである。
真の日蓮信者の要件は日蓮正宗の教義を理解していることだけではなく、具体的に神道の儀式をやらないことだ。公務員や有資格者なら実際上不可能なのだ。
皇室の自由は伊勢の下の自由であり、新自由主義世界の財閥の下の自由であるに過ぎない。
日蓮の完全なる魂の自由、信仰の自由は、日本人にとっての(世界的にも)理想のようなものになっている。
皇室が皇室の幸福を優先するか万人の幸福を優先するかという二択は成立しない。
皇室は皇室の幸福のために万人の幸福を願うポーズをとり、その気持ちがないわけではないというスタンスに見える。
国権は皇室にはなく、世界の財閥主導の政府や議会にある。
そこに日蓮の魂を吹き込むことは誰の目にも至難でありながら、お題目を唱え続ける人たちが絶えない不可思議を見出だす。
どういうことなのか明確な答えを一言にするのは難しい。
日蓮は神国王御書で末法の日本の王は日蓮であり、法華経だと説く。
諫暁八幡抄では八幡のお告げと国の反逆による因果と道理を説き、お題目を唱えてようやく神が守護することを教えている。
釈迦に敵対している仏教各派と国のために罪のない大衆が死んでいく。
末法日蓮出現後の大衆も踏んだり蹴ったりの泣きっ面に蜂ばかり。
仏から見た逆臣は宗教家と皇室をはじめとする政府関係者(科学者有識者を含む)なのである。
南無妙法蓮華経