FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

暑いんじゃないの?いや涼しいんです。

f:id:FujiYama:20210721163600j:plainあまりにはたから見ての印象と当事者の感覚が違う場合、いやそうじゃないからと言いたくなるのが、人情というもの。

日蓮正宗をやっている人を見てしばしばノルマ地獄で勧誘活動に駆り立てられている不幸な人たちという評価をしている一群の見方に出会う。

街頭で出くわした人や知人友人に対して日蓮正宗をやりましょうというのは、いったい何が楽しくて何が幸せでやっているのかわからない。

新興宗教の場合は、あきらかに勧誘であってノルマであって、入会させればそのあと自殺しようが鬱になろうが一家離散しようがどうでもよいという野放図なデタラメなので、心底楽しくもないおだてられただけの不幸な奴隷であり、宗教団体のために無償奉仕させられていることはわかりやすい。世間的なヤクザチンピラ宗教ではあたりまえだが疲労感がでやすい。

ところが日蓮正宗の場合は、ほんとうに病気が改善し、治り、余命がわずかな人が健康を回復し、元気で幸福に日々暮らすようになる。広い意味の健康改善を含むので万人向けだ。無理のない範囲で自分の余暇を見つけて他人に幸福な修行を教えるという宗教本来の姿がある。

粗悪不良品を押し売りまがいで販売してあとは知らんという新興宗教とは真逆で、超優良な生活習慣改善のための修行法を教育研修するシステムをすすめて喜んでいる。

きかないやせ薬や突然死するやせ薬で営業する場合はノルマ地獄であり、実際に健康になって頭がよくなる薬を低廉に提供する場合は楽しみとなる。

 

ライバルなら絶対に教えない修行法。

学校で成績の一位と二位を争うとか、マラソンで優勝争いをするとか、コンクールに参加するとか、さまざまなライバル関係において、ライバルには絶対に日蓮正宗の信心を教えない。日蓮正宗の修行を教えたら自分より優位に立つことが明らかだから。相手の成績が上がることをわざわざ教える馬鹿はいない。他人や友人知人という間柄だから教えるだけであって、自分が不利になることをする人はいない。みなさん分野横断的に日蓮正宗を布教する傾向が強いのはそのためである。

 

コマーシャルしない理由とスポンサーがいない理由

日蓮正宗は一般の宗教とは違って収益は二の次になっている。一番は仏の教えを伝えて一人一人が人生を充実させていくことで、本尊を安置して終りになる新興宗教や葬式の時だけの伝統仏教とは根本的に異なる。個人の一生涯の日常の維持向上のために日蓮と僧侶の教えを実行していく修行過程を重視するので、ほんとうは信徒を指導育成するキャパが足りていないくらいで、信徒が爆発的に増えて収益が増えても指導体制が追い付かずに粗悪仏教に成り下がるほうが重大な失態となる。日蓮と僧侶の指導を実践すると信徒の知恵があがって、あらゆる商業や医療の必要性が著しく低下するため、どこも商売あがったりになるので、スポンサーはつかない。信徒が本尊に感謝して出資した資金で儀式をしながら僧侶が食べているというアジアの伝統文化そのものである。

 

日本政府が認めない理由

日本政府は伊勢神宮を一番にして、それも歴史的に長い間立正安国論を闇に葬っており、日蓮宗各派を合併統合して神社の支配下に置こうとしてきた。つまり日蓮を一番にはしないから、唯一日蓮が一番である日蓮正宗は認めない。宗教法人として認可するだけにとどまって、仏教および日蓮の教えは採用せず、日蓮宗固有の神社のための曲解のみ採用している。純粋仏教を素直に採用する心理の政府関係者は、鎌倉時代の昔から個人的には存在しているのだが、政府全体としてそのような日蓮正宗を採用する気配はまったくない。神社を拝むとそういう心理に陥るというのが理由である。

神社が一番であるという主張のために、日蓮正宗の効果について政府は故意に統計をとらない。神社に媚びへつらえば特定の宗教の副作用について闇に葬ることができる。学術論文のテーマで宗教による有意な差について取扱われない理由は、事実と科学に反して不正をしてでも神社を一番に祀りたいからである。

 

やっていてしみじみと

ある都心の中くらいの大きさの公園で昼下がりに。あんなにガミガミお題目を言われてもなにが良いんだかわからない。なにが良いんだか教えて欲しいくらいだというボヤキが聞こえてきた。日蓮宗は山梨の身延だという認識の人が多いのも事実。

このズレはすごく大きい。実際に山梨の身延が日蓮宗であるという認識は、数の問題と政治力の問題においては正しいのでわかりづらいところである。自民党の支援団体であって数百万の信徒を擁する伝統仏教であり、事実日蓮がしばらく寺院を建立して住んでいたのだからそういう勘違いが生れるのも無理はない。

しかしその身延派の日蓮宗がお題目を唱えるとガミガミした響きのものになる。直弟子のお題目は澄んでいて美しいものなのだが、みなさんは日本中のほとんどの身延寺院や日蓮宗各派のガミガミしたほうを耳にするから、それはうるさいだけである。

日蓮宗のガミガミした濁り切った題目ですら、長く続けていると中毒性があるらしい。新興宗教創価学会も中毒性がある。中毒性があるというのは、理性的判断ができないままにやめられない状態を指しており、まさに害毒ということができる。

タバコやお酒が体に悪いのはわかっているが、ほとんどだれもやめられない。

日蓮正宗が唯一心身ともに健康増進になって爽やかに澄み渡った題目で継続可能なものである。

ヨット、サーフィン、サッカー、歌舞伎、オペラ、楽器、研究、営業、企画、開発、マーケティング、経営、教授などなんでもやりはじめは楽しさや醍醐味がわかったようでわからないものである。日々取り組んで知識を広げ経験を深めてなるほど面白いと充実してくるのが人間の常である。それらの分野横断的に共通して日蓮正宗をやるとよいというのがそのよさである。どの分野には効き目がないという穴がないのである。

日蓮正宗に入信してやめてしまう人は、継続して取り組んでいないためにその良さが知覚認識できないままの人たちである。中途半端にお題目をあげて中途半端に勤行しても中途半端ながら効果を体感することができ、きちんとやれば本当に効果がわかってくる。それは当人が体感することだから、はたから見ていてもよくわからない。

プールを外から眺めていても楽しそうだなとは思うが、飛び込まなければプールの楽しさはわからない。修行して泳げるようになるとさらにプールが楽しくなり、熟練してくるとさらに充実してくるという当たり前の過程を踏むだけのことである。

病気の場合は急場をしのげることが多く、そこもまた効果がまったくないという穴がほとんどない。

セルフマネージメントができるレベルの知識があるのは医師くらいだが、その医者の不養生というのが面白い実際のところである。

高知能者は事実上医師や科学者ではなく、釈迦と日蓮しかいない。ましてや神々などではない。

人間というのは自分を過信し偏頗な情報を過信し他人の評価や思惑に影響されるアホな生き物である。

日蓮正宗の特徴として頑張らなくてよいことと、頑張っただけ報われることが大きいと思う。規範通り頑張らなくてはならず報われないことが当たり前なんてことは愚の骨頂だと私は思う。名声や欲得で報われることは、目先において大したことではない。努力を続けられること、充足感の深さを峻別できること、自分を整えていくこと、毎日味わい堪能していけること、肩に力が入らないこと、死後まで安心できること、またそのように自分が変化していくことが、日蓮正宗の修行の楽しさなのだと思う。

私の場合、寺院に不法侵入まがいで参詣して一回目のお題目で、自分の成仏を確信し直感できたが、幼少期の一回のお題目の影響があるし、みなさんがどう感じるかについては、みなさんが体験するしかない。

知らないままで人生を終わる人が数十億人いるのはたいへん気の毒なことだ。