FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

コンビニフランチャイズ裁判とエリートのズレ

セブンイレブンの店主が訴えた訴訟の話題は、そもそも日本の商慣行の問題なのか、法的に基準とするべきものに司法が関与するかどうかという問題なのか、政局と宗教の問題なのか、ごちゃ混ぜに論じる意味はない。
コンビニのフランチャイズ契約は、高収入奴隷契約を希望するか否かの自由選択である。
24時間営業で安眠できる日も休日もなく、細かい営業努力とバイトやお客さんに気を遣い続けることで、かろうじて契約を維持する。
店舗の立地と取り扱い商品の幅などによって収入が左右され、不利な条件が重なれば大して儲からないが、そこは個人差で処理される。
その前提を理解していない場合に、不満が生じて非人道的だという主張が発生する。
ノーマルに考えるとそんな負荷の大きな業務を背負うのは、年収3000万級の自前店舗好立地のフルラインナップで夜勤人材に恵まれるという考えにくい条件が揃う場合に限られる。
あまりに難しい条件なので、努力してなんとかなる話ではなく、最初から手をつけない人たちが圧倒的に多いわけだ。
エリートが裁判官であり、コンビニの本部経営者であることを考えると、主張は無視される。
契約の自由で片付く。
労働分配率などの話を裁判の場で試みるのは?
店長組合が組織できない以上(いちおうユニオンは存在しているものの)交渉や訴訟は無効となる。
エリートは株価と収益のために思考判断する。
市民のため、労働者のためには絶対働かない。
この鉄則から、政党や組合の重要性や存在意義が見えてくる。
収益が上がっている店にあがりはみんな出せと屋台を回るヤクザと同じ神道のエリートには、迷いもなく罪悪感もない。
なにも人間の声は聴かない。
政党と組合だけではなく、宗教の間違いまで言えなければ、日本人がひろく奴隷契約を強制されることは同じだ。
他の職業職種でも、非人道的なことが溢れかえっている。
裁判も大切だが、日本人の意識を変えることが重要だ。
そしてだからこそ本ブログでは純日蓮宗である日蓮正宗をたびたび持ち出すのである。
どれだけよい話をしても、相づちを打っても、みんなフラフラと神道の呪縛に戻る。
神道には社会正義とか人間とかまったくわからない。
司馬遼太郎のぼやき、日本は嫌な国になった、というのは、もともと邪悪で愚かな神道エリートの正体に気が付いただけのことなのだ。
地獄に気付かず能天気に過ごしてきた日本人は、純日蓮宗日蓮正宗でしか魂を救われることはない。
もちろん魂だけ救われても仕方ないから、様々な努力や試みはするべきだが、現代人は他人の不幸に無関心であることが健康だと洗脳されているので、費用対効果、努力対効果は、しばしばマイナスになっている。
地獄の自覚すら持てない、苦しいとも言えない、希望を持てない、日本人たちが不幸だからといっても、無視、スルー、不干渉、不介入が一番の日本人の常識は神道(ユダヤ財閥華僑へのお追従)から来ている。
エリートが日本人のために仕事をするようになるとしたら、神道を捨てる時であり、それは公職を辞する時である。
日本に希望などないのである。
論点は因果関係を整理しなければ無駄だ。
受け入れがたい因果関係から逸れる日本人たちが、日本を良く変えることは基本的に不可能なのだ。
その上で自由な主張と表現は世界人類のためにとてもよいことだと思う。
多くの意義ある訴えに尊敬の念を持つ。