音感と基準、音楽と宗教を混同して理解した日本人は、人間チューナーが絶対だと勘違いしたが、そもそも絶対的宗教を定める時代ではないことを理解できない大衆文化こそ世相を狂わせている。
絶対音感の意味をわからないまま、絶対という単語に対する信仰や強いこだわりを持つ。
日蓮正宗、創価学会、顕正会などの絶対的幸福価値観は、民衆を惑わせてきた。
絶対のものにすがりたい民衆は、カルトなど嫌だから、絶対音感こそこの世の絶対的正義、幸福であると籠絡されるのだ。
無常を説くためのブログではないが、浅識で絶対にすがるのは不幸だ。
日蓮正宗が絶対だと思う人達は、いずれかの宗教を絶対だと思う人達と同様、間違っている。
絶対を理解してから、きわめてから、その正しさを説くのが正しい。
題目さえ唱えれば、大御本尊さえ正しければ、というのは馬鹿でも言える。
問題は、幸福かどうかである。
通俗的絶対音感が人間を不幸にするように、日蓮宗各派、仏教各派は民衆を不幸にする。
キリスト教が絶対だからと児童虐待が多発するのと構図は同じである。
きちんときわめてから絶対と相対を使い分けるべきで、ある程度の思策が必要だ。
どちらかといえば絶対と相対ではなく、絶対と無常の対比のほうが価値がある。
限定的絶対がほとんどすべてであり、絶対がないことに気が付くべきだ。
絶対的宗教だと自民公明連合がうそぶいても為替や財政すらわからない。
自分たちが絶対偉いのだと言って、相対的無常、変化への対応を拒否する軍政を敷いただけだ。
ゼロ成長路線は世界で一斉にやれば可能だが、しばらく世界が統一されることはない。
残念ながら宗教も政治も経済も音楽すら自分たちが一番偉いというため、利権のための道具に過ぎない。
その陰で個人が犠牲になり無数の未来が摘み取られている。
人間は愚かで邪悪な生き物だ。
身近な親切な人達ですらそれは同じ。
確かな自分本位は生存するために必要なことで、私利私欲や強欲とは異なる。
個人の意思、自由意志、絶対的寿命を尊重して、いかなる絶対的君主も絶対ではないことを識ることから出発していただきたい。
音楽的ではない日本の音楽家達は絶対的君主ではない。
音楽的という言葉の定義が本家とはかなり異なる。
日本の音楽文化が亜流になっていても修正する人はいない。
日本は日本だと勘違いしている。
政治的間違いが音楽にそのまま投影されている。
その下支え、土台こそ日蓮正宗教学の悪用、絶対的幸福論である。
だから日本人はどこまで行っても不幸であり、誰かにマウントする犬の幸福に浸れる。
まず人間にもなれない。
天国にすら昇れない猿は成仏できず地獄で仏と題目を唱える。
しかし地獄の中を堂々巡りするしかない。
日蓮正宗は確実に神道系(一次大戦ごろからはユダヤ経済)の階級世界を流布している。
四悪趣の好きな日本人途上国向けの宗教だ。
競合するイスラムキリストにすら勝てない。
もし日蓮正宗が仏説を流布していたら、イスラム教勢力くらいにはなっているが、実際階級社会の流布だから現代にはそぐわない。
大衆は犠牲になるための虫けらと洗脳するために大御本尊がある。
それが宗門のやり方だ。
日蓮の教えは理論上にとどまる。
日蓮を越えキリストを越えて、人類は前進する。
宗門教会の私利私欲のための犠牲や道具になってはならない。
聖典、仏典こそ人類のために貢献する。
明治以降宗門は人類の敵である。
ましてや現代アジアクラシックや新興カルトにおいておや。
絶対がないことこそが絶対だ。
相対無常のなかの絶対に時間をかける意味はないのだ。
絶対に間違いなくあるのは全生命にある個だけだ。
純正律だけが個を幸福にする。
宗教と大衆文化はすべての個を狂わせる。
個の均衡と純正律は本来一致する。
こだわるべきは純正律である。