日蓮は死んで成仏することと同じくらい生き仏になることを重視した。
釈迦は30歳で仏に成ったと言うが、法華経で実は過去世から修行してきたことを明かす。
立派な人格者として完成するための修行とどこまでも仏の魂を維持するための修行を並立同時進行させるものでなければ、われわれには役に立たない。
日蓮正宗で唱題を中心に教えを学んでいると、ある時、日蓮の言葉がそのまま自分の魂と一致していることに感動する。
現代人は、優秀であればあるほど傲慢になり、自分が神になったと思って私利私欲に走る。他人の不幸は当事者の問題だとする。
日蓮はどれだけ凄くても、法華経(南無妙法蓮華経)がまず先にあってのことと謙虚だ。
そして世の不幸の原因が法華経無視、誹謗から生じるという根本の問題を指摘した。
日蓮の法華経を中心にした見方は、便利で自由な現代には価値のない無意味で非科学的な視線ではない。
唱題しながら御書を学んで、日蓮正宗寺院で御僧侶の姿を拝していくなかで、自分が日蓮の分身仏であることもわかる。
不思議な感覚がして、現代人がいかに不幸で危うい繁栄を追い求めているかよく見える。
わざわざ他人や知人に宗教を勧める宗教は日本では日蓮正宗系とキリスト教系しかない。
地域の幸福を願って確かな悠久の魂を獲得していくこと能う宗教は日蓮正宗しかないのだが、その場しのぎやとりあえずの方策としての宗教や科学に飛び付く人たちがほとんどだ。
唱題と御書と御僧侶のおかげで、この乱世に自分を確かに明らかに生きることができる。
自分は本来、仏だったのだとわかる。
生まれる前から仏だったし、永遠に仏である。
一般人からすると、さっぱりわからないのだろうが、本職の僧侶の中の専門知識まで学んで、経験していく中で確認している。
どの宗派がどの段階まで日蓮の教義を理解しているのかも歴然としており、日蓮正宗は世界のあらゆる宗教を俯瞰している。
そもそも何が幸福なのかわかっていない人類が溢れかえっている。
気の毒なことだが、救いのない現実の中で多くのエリートすら絶望している。
目先をこなすだけの動物的な一生とは次元が違う仏に成ることをまず第一に人生設計すると、あらゆる生命は躍動することができる。
能力とか生まれとか才能とか地位とかは、幸福の要素ではない。
魂がどのような魂なのか?
魂こそ幸福の決め手であり、日蓮と一致している人たちは、個性豊かにそれぞれ人生を謳歌している。
どうでもよい幸福に一生を棒に振る所詮生き物で終わるのは、感心しない。
当然、死後は地獄であることも予定している。
自分の命、魂が永遠の中のものであり、死後も続くものだということすらわからない人間があまりに多いが、法華経の内容も知らないし、釈迦の師匠も知らないし、無限の宇宙全体に溢れるエネルギーの種別もわからない凡人たちには、無理もないことである。
永遠の魂を体感し、仏と一致することができる日蓮正宗には価値がある。
自分が1番のアホな現代人たちは、深く考えるべきだと思う。