FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

たいはんで個人の意思を許さない仏教の教え 日蓮正宗その他

仏教の法理、戒体厳護はすべて成仏のための助けであり仕組みである。

つまり人間として幸福でなければ本末転倒であり、成仏する意味はない。困窮者に対して畜生成仏に限定した修行を強要する指導指南には問題がある。

また、今の命をすべて来世のために使うように教えるのは、完全な出家でなければ成立しない。

とはいえ妻帯肉食では戒体に毒を入れるようなものだが在家は成仏できる。

自我の欲求は当たり前なので、戒体は宝器でしかないことを考えて、個人の自由意思を尊重する必要がある。

猊下に直接指南される人たちはわずかなのだから、末寺で不適切な指導があれば、日興の遺戒のとおり己義として用いてはならない。

しかし猊下が間違いをやる場合には、修正はほぼできない。

御内証から即断できる場合は修正できるが、三世を見通せない凡夫(或は故意に御供養額のための判断)としての開き直りである。

成仏のために戒だけでできるほとんどの場合には間違いなく唱題だけで万事好転するし、そう信じなければできない。

その戒のために逆に離壇を反逆者扱いもあるわけで、成仏しないと断定することになる。

戒は法主絶対主義そのものであり、在家にもその縛りは及ぶ。

キリスト教各派にも似たような不自由や弊害でがんじがらめの地獄はあるのだが一部だ。

個人の意思・申請・提案を一切黙らせるために戒が作用している。

仏教は個人の自由意思が言えない宗教だ。

平和なのは、黙らせて自殺や所払いに追い込むから限定的であり、東ユーラシアは悲惨な人権後進地帯である。

なにもかも自己責任なので、宗教にのめり込ませて安心させ、そのために親しい人たちを足蹴にする者も少なからず出てくる。仏教各派はカルトのお手本だ。

日蓮の利根と通力によるべからずという戒めは人の苦しみを作らないために必要だが、では利根と通力を否定してよいか、猊下が凡人だから無責任でよいのかという点は別問題だろう。

疑いの次元なら本人の心の問題だ。

しかしながら、きちんと修行して確認していくなかで獲られる悟り、聖の眼力や身口意は日蓮が言うとおり間違いない。平信徒が折伏できるのは、凡夫即極、凡聖因果微妙だからであるが、僧侶絶対である。

法主絶対主義というのは創価のいたずらな批判であり、たいていは批判が目的だ。

よほどのことがなければ、法主もまた内証の悟りが確実で聖のものを持っているから、批判の半分は明らかにどうでもよい。

しかし法主以下の己義となると大聖を想起して批判は謙虚に受け止めるべきだ。

日蓮正宗では法華経が皆成仏の法であると同時に救えない一群を想定している。

他の仏教ではその範囲対象は拡がる。

さらに代々と身内への対応は新参とは異なる。

僧侶の中でもその差別はある。

成仏のためなので、戒を絶対だと言えない人たちが無数にいる。

戒を護って成仏しない場合、護る人はおかしい。

ただ僧侶が成仏しているという宣告だけである。

人間は皆馬鹿だから、信じて騙される。

不都合も流す。

不幸になっても信じている。

路頭に迷わせて不信心と嘲るだけの残虐非道な僧侶もいる。

人界を損ねる修行は問題のある反社会的行為だ。損ずるは強言。

衣食住に差し障りがないようにしなければ社会の治安が悪くなる。

すべて自己責任なら山奥で自給自足するしかない。

信心や成仏はどの宗派であれ内外、心と環境作用のバランス調整だ。

法華講の理屈は無責任だ。

折伏して成仏したとか人倫で幸福になったという比率は実際は低い。長年やっていても1人とか片手で数えられる人数だそうだ。

代々やっていれば成仏するという不文律を造っているのは、指南指導が不適切だからである。法主の代々と個人の遺伝子の代々が混同されれば濁る。

手間暇と資金をどう配分するかという視点から言えば、種子を蒔くだけで9割を使っているようなので手入れせず種子は死滅率が高率であり、ぶれずに困窮者を個人攻撃してさらしものにし、自己責任と断定している。

日蓮の魂とは明らかに異なり、困窮者までもつついてネタにして面白がっている。

誰しも不幸になる信心だとおもったほうが一般的用心としては正しい。

野蛮な未開人を謙虚にしつけるためには多少役立つ場合もあるが、人間としては成長しない。

例えば公務員が何十年同じ仕事を単純に勤勉にこなしても、それだけでは老後ただの甘えたじいさんばあさんに終わる。

人間とはどういう生き物なのかわかっていないし、日蓮の教え、アジアの伝統では人間になれない。

戒を一番にして自己決定が許されないのだから当然だ。

成仏そのものには根拠も徳もない。

有害無益なものにせっかくの人としての生涯をつぎ込むのはもったいない。

人界の人間など日本にはまばらだ。

悪巧みの悪徳仏教を常識や基準にしてはならない。