FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

眼は口ほどに 先天的人格(境涯)と仏教的人間完成に向けて

f:id:FujiYama:20220224031138j:plain仏眼
慧眼
慈眼
法眼
天眼
肉眼

仏眼というのは仏像の眼ではないとかいう次元の話は笑い話としてはよいが、実際は重症である。
我々は眼鏡をしていない裸眼を肉眼と呼ぶことがあるくらいで、にくがんと読んでしまう。
ぶつげん、えげん、じげん、ほうげん、てんげん、にくげんが正しい。
仏の分類に従って慧眼も変わる。
法の浅深によって法眼は異なる。
世界統治、世界の治生産業の枠組みによって天眼が様々なことを判別する。
五感に支配された生物としての眼が、我々の物理的眼であり、医学的にも最下位の肉眼を取り扱う。
仏道を習い究めてはじめてわかるこの眼の違い。境地が開けた瞬間瞬間に、一念三千のたてわけがついて智解が及ぶようになる。
しかし現実に悟った人はほとんどいない。

悟ることと、なにもしないことはほぼ同じで、辛うじて他者に唱題をすすめる。

口はその人の眼の奥にある心(意)を示す言葉とその響きを露にする。
眼は口ほどにものを言うこともあるが、眼をみてというより心をみて判別できる能力があればこそで、案外難しい。
結局他者の心をうかがい知るための努力にはそれほど意味はなくて、自分の心を整えるほうがはるかに有用な技術である。もちろん他者の心に気を配りながらである。
人の心をあてにする苦しみは大きく深いので、必要最低限自分の心を大切にするなら人に期待しないことだ。
日常の肉眼で、人天、修羅、地獄餓鬼畜生というおおまかな違いくらいは見分けて距離をはかることは必要だ。
しかし浅い表面上の肉眼と知恵ではうまくいかない。知恵も思考も疲れるばかり。
いくら勉強しても天眼すら半端な理解ではハズレばかり引くことになる。

キリスト教でも聖人にいたるランクがある。
人を救うための知恵のレベルや世界の構成を知らずに愚かな堂々巡りは避けたい。
難しい理論より直感的に現実を分析する能力が大切だなと思う。
法華講の法眼もハズレがある。ただの赤の他人の世間話と変わらないこともある。
僧侶ですら慈眼がないことがある。
三悪道(地獄・餓鬼・畜生)四悪趣(修羅)に終わる法華講創価顕正のアリ地獄は視るにたえない。
日蓮の仏眼をそのまま感じてそこからの慈眼・法眼で会話をしようとしてもまるで通じないことが多くて幻滅する。
日本人は天眼がそもそも偏向している。
ズル賢い人間がせいぜいの日蓮宗各派はいただけない。
正統の日蓮正宗ですら、そんなものかなと感じることが頻繁だった。
あまりに無慈悲な仏教が蔓延っている。
正しい心を知るための唱題。
正しい唱題のための本尊と僧侶の化導。

僧侶が間違えて指導しているために唱題して三悪道四悪趣に堕ちる人ばかりになっている。
慈悲の法眼でわかる必要な指導を徹底するように、日蓮正宗僧俗の自覚が求められているのだが、、、。
修行と人間の向上が一致しない人たちはいったい何を拝んでいるのだろうか?
御僧侶は信仰の対象ではない。
本尊と大聖人の教えから離れた指導に信服随順すればそれはおかしくなるし、現証が歴然と出る。
団子三兄弟の日蓮正宗創価顕正には用心しなければならない。