FujiYama’s blog

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日蓮正宗の強みと急所 自縄自縛

f:id:FujiYama:20211026234930j:plainいろんな宗教があるが、ゆとりある人が大金を使う宗教と、それほど余裕のない人がかつかつやる宗教と、貧困層がぼちぼちやる宗教というそれぞれの都合に合わせた選び方をとることになる。

つまり日蓮正宗の強みである教えの正しさや本尊の正統性というものを布教するにあたって、対象とする所得階層や文化階層をわきまえなければ、ピントのはずれた寺院経営、育成に陥って、一切の努力が無駄になるということを論証する記事である。

どの宗教でも富裕層は大歓迎。一般家庭は冠婚葬祭の時だけ出費をするのはやむを得ないと考えているから、これもウェルカム。しかし貧困層はただ迷惑な人たちでできれば来てほしくない。

どの宗教でも同じで、どの職業宗教家も同じだということがあるから、面倒なことはやりたくないのが僧侶だということである。

宗祖は数だけ集める人気取りの分派が派生して宗教を立てることを予測しており、そのまま創価学会顕正会ができた。彼らは貧困層を取り込んでまんまと成功した。

日蓮正宗は富裕層から大金をとるだけではない。

一般家庭から冠婚葬祭だけでなく、年中毎月のように取り続け、本山への供養と登山という形で年間に数回出費を強いる。これは無視できない金額になるが自由である。

この時点で、現代の科学文明の発達した世代には意味不明である。

さらに貧困層に同じように負担を強いる。

公平平等という言葉をはき違えて、貧困層に負担を強いる。

強いるだけではなく、貧困層は役に立たない厄介者であるという蔑視が日常的なものである。煙たがって遠ざけるためには手段を択ばない。聞こえよがしの陰口もうわさも絶えない。

年収が1千万を超えている人たちですら、子供に遺産がのこせないレベルでご供養と登山に明け暮れる。

生活保護世帯が毎月1万円以上の供養を奮発し、洋服も買えない人がざらである。

そしてそれを信心強盛だともてはやす。

僧侶と役職のある人が推奨している。

ズボンのお尻に穴が開いた、ありのままの姿を拝見して、教えと本尊の正しさの意味はいったいなんなのかと考えるようになった。

ありがたい日蓮の御書を講義する御報恩御講で著名な僧侶が讃嘆したのはご供養の額が多いことであった。通例で一回2000円を3000円にすればよいという。

そもそもご供養という行為が、仏に対する、現代では本尊に対する供養であり、もともとは餓死しかねない日蓮に対するご供養であり、したがって具体的に食料や衣服やいくばくかの金銭であったから、決して貧困層ができるなどとは期待されていない。

それなりの地位や収入のあった信徒が日蓮に対して供養に金銭を用いただけ。

身延で堂宇が建立できたのだから、一応のまとまった金額が集まったとはいえ、それもわずかな期間のことである。

感心な僧侶は粗食で大衆車に乗って自腹を切ってやりくりしているが、本山の一部において、またその周辺の僧侶たちは、高級車に乗って多少なり無駄遣いが当たり前な生活をしている。新興宗教がさきの猊下の自宅の価格が10億以上すると言って批判しているが、いわゆる旧士族レベルの生活がうらやましい人たちからすれば、非難に値することになる。

日蓮や日興がぜいたくをしなかったのは当たり前すぎるが、その後南条家から、またそれ以外の士族から大石寺に出家した人たちは、世間一般の平民よりはぜいたくな育ちである。天皇家の親戚まで入っている。大石寺の僧侶集団が内証の悟りを信じていたのか身分階級を信じていたのかという核心的問題が歴然としている。

そうなってくると、どうしても生活レベルがぜいたくになってくる。

江戸時代には僧が官位官職だったからみんなが我慢していた。

それを妻帯はするわ贅沢な暮らしはするわ、貧乏人は死んでしまえとなってくると。

そもそも信心は心を鍛えてゆとりを生み、そのゆとりを使ってあらゆる人格と生命を尊重するためのシステムである。

教えと本尊はそういう方向性を具体的に明示しているのだが、僧侶と役職のある人たちは、そのゆとりを使ってただ貢がせることに特化した。

供養の種類が何種類かあるが、絶対条件になっているのが金銭である。

日蓮と日興はそんなものはまったく条件化しなかったわけで、一切衆生を救済するというのがきれいごとではないのだから、そんなことは当たり前すぎる。

供養は唱題であり、折伏であるという第一義を忘却した日蓮正宗の僧侶たちは、実入りによって信徒を選別排除することを厭わない。

凡僧という言い方で、どの職業宗教家も私利私欲を極めて、教えや本尊を二の次にするようになることを日蓮と日興は明らかに想定している。

そして法主でも間違いがあるから衆議でただせと言っているのだが、衆議でも間違えた場合にどうするのかという指示は残っていない。

完全無欠の日蓮と日興の教えは、このようにして損なわれたのである。

貧困層が1円玉や5円玉でもなんとかできる宗教はキリスト教神道イスラム教あたりである。

大乗仏教というのがきれいごとになって、修行や悟りイコール忍耐と節約と上納金になり、つまり小乗仏教と同じになってしまったからには、仏教そのものがなんの御利益もない富裕層限定、一般世帯の冠婚葬祭限定のイベント会社になったということを知らなければならない。

数百年の長きにわたって文化レベルが上がらない日本、日本人の所得の伸び悩み、富裕層限定の文化、そのあたりは仏教文化そのものであり、僧侶と一部の熱心な媚びへつらうだけの人たちによる独占専有物にしてあることと無縁ではない。

もし本気で布教する意思があるのであれば、役員以下法華講には貧困層に10円玉で参詣させる度量が必要である。

私は純粋に唱題していればそんな度量は当たり前だと思うが、どうやらそうではない人が十中八九らしい。

日蓮のように一切衆生を救うという度量がないのである。

むしろ気に入らないものは逆縁と称して排除し地獄に落としてやればよいという感性が蔓延している。

たいていの法華講は感覚が麻痺している。

平等におだて上げて搾り取ればよい、と。

唱題の悟りの感覚がどこでどう転じて順縁と逆縁を仕分けしているのか不思議だったので寺院でたくさんの人の話を参考にして、勉強させていただいた。

日蓮日興が説いた順縁逆縁とか功徳とか供養という言葉、単語が意味するものと、現代の日蓮正宗法華講で言っているその言葉の意味は、まったく別次元のものがありふれており、この宗門の危機的状況が改善されそうな予兆が皆無なのである。

大聖人様はそこのところを言いたかったのではないかと思う。

内証の悟りという最高の心から言えば、末寺における差別と排除の麻痺しきった残虐非道さは相容れないものであることに気が付かざるを得ないわけである。

日顕上人は学会を切る時にイモを作ってでもやっていくと宣言しているので、法華講連合会もその心を心として、一切衆生の人格と尊厳を守り抜くために行動していかねばならない。

まず寺院経営の倫理観を根本的に見直す必要があるが、布教育成より現金収入が第一となっているので、一般大衆からはたいした宗教とかありがたい本尊とかいうほどのものには見えない。

公務員と有資格者を顧客営業要員とするマニア向けカルトでしかない。

信心はきちんとやれば地位やお金に左右されない人格を陶冶できる。

そこのところが非常に怪しい弟子信徒さんがたが大勢いることは間違いない。

育成、育成、育成、破折、育成、破折、育成、唱題。

信心に必要な最小限の費用と蓄えを考えていけば、難しい人たちをしっかり養生させるのも知恵であろう。

唱題ほどすばらしい養生もない。

世間一般の凡僧と同じでは公布や育成は叶うまい。

説法を聴いたってどこがどう日蓮正宗の凡僧なのかがまったくわからない。

仏の悟りというより難しい人たちを選別排除する割り切りの大義名分に日蓮正宗は使われているから、日本人だけが世界中からみてきれいごとだけで実際は悲惨なのである。

ずばり神道の基準にあわない者は逆縁にしてある。

日蓮正宗は、日蓮や日興とは無縁の教えを説いている。

まさに義絶である。そうでなければ両舌だ。

ましてや他の宗教がそんなもの知るわけがない。

これからの日本がますますひどい国になることはそもそも根本において確定しているのである。

日蓮正宗の規範は世界の非常識そのものだ。

国宝レベルを超えている日蓮日興の遺物も宝の持ち腐れである。