鎌倉時代に出現あそばされた日蓮は、多くの曼陀羅本尊を書きのこしたが、2004年6月10日の日蓮宗新聞によると現存は127体であるとのことである。130体あると言う宗派もあるが、その前後の数が現存していると考えるとよい。
問題は、その内容や性質がそれぞれ1体1体異なるというところだ。
肝心かなめな結論から言えば、日蓮宗や創価学会などは、目くじらをたてて戒壇の本尊は特別な本尊ではないはずだと主張しているが、しかし日蓮正宗に存在する戒壇の本尊は、日蓮があらわした本尊の根本の位置づけであり、130体の頂点に君臨する最高峰の本尊なのである。これを認めると日蓮宗や創価学会は立つ瀬がなく、自分たちが拝んでいる本尊がぜんぶ格下の弱い立場になって面白くない。
正本尊とは
又五人並に已下の諸僧等日本乃至一閻浮提の外・万国に之を流布せしむと雖も日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり所以は何ん在世滅後殊なりと雖も付属の儀式之同じ譬えば四大六万の直弟の本眷属有りと雖も上行薩埵を以て結要の大導師と定むるが如し、(百六箇抄)
これがいわゆる戒壇の大御本尊を指すことは明らかである。大御本尊は弘安二年10月に書かれ、百六箇抄はその翌年に書かれている。
おもしろいのは、自分が書いた本尊を正式の本尊としなさいとは言わず、日興が代々伝える曼陀羅を正式なものとして特別に取扱いなさいと言っているところ。
日本各地に曼陀羅は書き送ってあるけれど、それが1万年以上経過すると、どのようになっていくか、非常にあやしい。ある者は粗末にし、ある者は書画として売却するやもしれぬ。どこでどうなるかわからないのが曼陀羅本尊であるし、ネットでもコピーが販売されている。
それに6老僧を定めたものの、本弟子日興にきちんと従って正しい法華経の理解がある教団として存続できるかどうかも非常に怪しいとみて、前もって言い遺してある。
仏教では成仏するかどうか、という点を非常に重視するのだが、現代人からするとただ死んだら死んだだけで、医者が死亡診断をしたら死んだ状態だから、死が成仏でしかなく、成仏の内容まではどうでもよい人が多い。つまり文献とか骨董品として日蓮直筆の本尊なら同じだという見方をする人が増えていることは確かだし、それはそれで一応本物であるという意味で正しい。
しかし正しい修行によって成仏するかどうか、という点が重要な信仰上の問題になってくると、これはまったく別問題で本尊に明らかな違いがある。
日蓮の教え、正しい法華経の解釈がわかる日興だけに戒壇の本尊を託したという事実が意味するのは、日蓮教団の分裂と本尊の遺失という予測があったということである。教義として日蓮がこだわった部分と本尊にわざわざ差別を作って明確に区別させたというところが、いいかげんな仏さまではなかったというところを示している。
修業法の教えとしては、100以上ある日蓮直筆の曼陀羅本尊を拝んでも成仏はしないということである。
そんな教えは絶対に信じないぞと、息巻いて、真筆なら成仏するのだと主張する輩が出ることは、日蓮大聖人は見通していたというわけである。非常にシステマティックに日蓮の直弟子だけに正しい教えを継承させたのだなと感服するよりない。
日蓮宗は大聖人の御書をいちおう研究しているから、本心では戒壇の本尊が特別な本尊だとわかっており、それで面白いことに日興が身延山久遠寺から盗み持ち出したのだと主張することが多々ある。日蓮宗は本心では白旗をあげており、日蓮正宗の戒壇の本尊がうらやましいのである。しかし後の祭りで、彼らは日蓮正宗に移籍改宗しない限りは成仏できないのではないかという漠然とした、しかしその真実の堕地獄に怯えたまま修行をしなければならない。
創価学会もまた、毎日の朝夕の勤行の御観念文に長らく大御本尊という文字があったが、最近になって削除した。彼らも御書を研鑽した時期があり、日蓮正宗の戒壇の本尊でなければ成仏しないと主張して教団を大きくしてきた。しかしその戒壇の本尊はもはや参拝することができないから、学会のイニシアチブを日蓮正宗が握ることになって面白くない。独立した新興宗教として好き勝手に私利私欲を極めたいので、拝む対象の根本を削除したわけだ。ちなみに削除して、表向きコピー曼陀羅を拝むことにしたのだが、創価学会の本尊は曼陀羅ではなく池田大作その他の雑乱状態にある。勤行の内容を極端に短くしてほとんどコピーすら拝まないようになり、選挙活動や機関紙営業活動や娯楽興行活動に多忙を極めるだけの、政治団体になったのである。昔は日蓮正宗で戒壇の本尊を拝んでたくさんの奇跡的な信仰体験があったが、今や堕落した変な人たちの集まりで誰も近寄らない危険教団になった。指導者を間違えるとそこまでわけがわからない宗派に変わるものだと哀れみを通り越して私は彼らを軽蔑している。
日蓮宗も同じだが、日蓮から正式な6人の弟子のうちに認めてもらって、それであとは日興の教えをうけますという姿勢であったら、教団は分裂しなかったが、そこが難しいところである。創価は日蓮正宗から正式な信徒団体として認めてもらって、あとは猊下の教えをうけますという姿勢であったら、教団は破門にしないが、まさに正しい信心指導を聴くことができなかった池田大作と日郎たち5老僧は大差ない。教団はそれなりに大きいので政治的には影響力があるが、しかし正式な日蓮門下として公認されなかったのである。
悲惨なのは彼らが御書で日蓮大聖人の教えを読んで、自分たちが疎外された亜流であることを自覚せざるを得ないことだろう。そしてその直言と現実を受け入れることができないために、とてつもない膨大なウソやねつ造、屁理屈、珍解釈を持ち出して未来永劫に笑いものになることである。彼らは名聞名利で宗教団体をやっているから、悲しいかなその証拠文献が数多く出版されており、平たく言って恥をさらしている。焚書坑儒そのもので、正しい内容の出版物は闇に葬るという暴挙もやってのけるので、かえって悪事がばれるという醜態も晒すことになる。
日蓮宗は骨董品宗で偉いのだとふんぞり返って屁理屈をこねまわす。創価学会はコピーを乱発して数と政治とカネだと肩を怒らせて闊歩する。
だがしかし、どこまでいっても、ニセモノはニセモノでしかなく、そんな姿勢や態度では日蓮大聖人様からはお褒めにはあずかれないのである。死後の成仏というのは、たとえると自身が曼陀羅に入っていく感覚に近いのだが、彼らは入れない。
池田大作はカノッサの屈辱事件などにならって日蓮正宗にわびてしかるべきであったと思うが、池田には人間としての問題があったのではなかろうかと思う昨今である。
きちんとした宗教であれば、破門などの厳正な処分が下ることはいくらでもあるし、それは反省して改める意思表示と行動さえあれば、きちんと許された事例もまた存在しているのである。日本国においても、日蓮正宗で日興上人に破門にされて12年後に許された真実の師弟、真実の信仰の逸話と記録が遺されており、そこに人間としての誇りや尊厳というものを垣間見て深い感動を禁じ得ない。
なぜ日蓮は日興だけに戒壇の本尊を託したのかという理由は、まさに本物の弟子だったからなのだ。そしてそのことは信徒のみなさんはほとんど理解しているから、世界地図の隅っこの富士宮にある大石寺というのは、小さくても世界に誇ることができる本物の仏教であり、宗派なのだ。
逆恨みをしたり自分のほうが優れていると喧伝したりするニセモノの信心の不純で不徳な池田大作は、おそらく面白くなくて居心地が悪かったのではないかと思う。たとえ別団体を立ち上げても宗門に反逆してまで私利私欲と自己顕示に走るというのは、大聖人様に対して恐ろしい反逆の行動をとることになるから、信仰上はできないはずである。政治団体とか文化団体とかで私利私欲は満たせたかもしれないが、道連れの1600万人程度の会員たちが、全員苦しみと悩乱と慢心とに陥り、つまりみなさんが不幸になってしまったことに気が付かない。本尊なんて刷ればよいとスリやかっぱらいの根性で戒壇の本尊を捨ててしまった。一般世間で言えば通貨紙幣の偽造犯だ。
人間をよくするのも宗教だが、わるくするほうが圧倒的に多い。
真筆本尊が130あっても本物の戒壇本尊は1つしかないのである。
日蓮正宗には法水(ほっすい)という言葉があり、戒壇本尊からその他の本尊に流れてくるもので、戒壇本尊は言うなれば水源地や源流にあたる。これは日蓮正宗大石寺や末寺および家庭安置の本尊に手を合わせてみると実によくわかる。その富士の清流が体験できる悟りだということは、あまり知られていない。これは体験してはじめて理解できる成仏という心地である。不思議にも法水が通うのは日蓮正宗の本尊だけである。
身延日蓮宗や創価学会の本尊にいくらお題目を唱えても、どんな勉強をしても、さっぱり見当違いな慢心に陥るだけで、とても悟りなんて得られないし、悩乱して苦しむだけである。
成仏の悟りの心地というのは日蓮正宗なら誰でも体験できる。誰でも体験できる形式を守り続け伝え続けることの貴重さとありがたさを毎日感じて生きているので、いつ不測の事態が来ても大丈夫だという絶対の安心感になる。
ニセの浅い安心感に満足していることは、真実を探求しない人間のおごりだ。死ねばそれで何もなくなるという物質文明や唯物論に安住するのは、なにもわかっていない証拠。仏の悟りと教えに素直に耳を傾けて、真実正しい日蓮正宗の門をくぐるのが、あらゆる人に対する恩や先祖代々の恩に報いる唯一無二の道である。
人類が真に大切に参詣するべき本尊は、戒壇本尊だけである。
ただそれを体験するだけで誰でも悟りの境地がわかるようになる恒久平和への道でもある。