FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

筆と宗教紛争と真偽

わたしの母とわたしの字体はとてもよく似ていた。
わたしは食卓に置いてある母の手書きのメモを見て育った。
母の従兄弟にあたる能筆家の書を見て育った。
実はそれがまたよく似ていた。
たくさんの字体書体を比べていくと、平安期の藤原氏のものに雰囲気が同じだ。
中学生までその流れで書道教室に行った。
地方で賞状もたくさんいただいたが、それより優しい字体が印象的だった。
それは浄土真宗の書体でもあった。

数年後、日蓮正宗大石寺法主の日寛師の筆になる原本を偽造編集した曼陀羅に出会う。流麗かと思いきや、中心線がずれている。
さらに日蓮本人の筆になるものを手本とした流派との出会いがあり、その手本で2年程練習する。図書館で日蓮筆のものをコピーして研究する。
力強い硬派な書風はとても男性的である。

新興宗教創価学会の拠点(アジト)では池田大作氏の書を有難がって拝んでいる。
どう見ても、基礎のない下手な書でお手本などまるで意識していない幼稚なものだ。
好き勝手なだけで、あまりに格が違うので、創価学会がどうでもよいことがすぐに判った。

浄土真宗の書家で、実力を鍛え上げてきた親類の書展に伺わせていただいたことを思い出す。
南無阿弥陀仏を正面中央に掲げ、中国の漢詩や専門性の高い書がいくつも展示されていて、見応えがある。
1枚の和紙ではなく、一幅の名画である。
書道界できちんと認められた人の作品展の冴えと美と日常感を肌で感じた。
作品に感嘆していると、主催の書家がお声を掛けて下さり、その姿が亡き祖父によく似ていて、深い感動を覚えた。
そこで人におっしゃっていたことは、「ふつうに書いただけ」と。

書風書体を書きわけるほどわたしは器用でなくて、日蓮宗浄土真宗が混在して混乱することがある。
ようやく両刀遣いみたいになってきた。
今は無意識だと日蓮宗の書風になることが増えた。
しかし、浄土真宗に最初育まれていたからこその今である。
ニセモノを見破るのは簡単である。
どの道でも師弟がまっとうならそれ自体がホンモノである。
日蓮正宗にこだわる理由も、バイオリンにこだわる理由も、いろんなこだわりには、師弟がある。
主・師・親の三徳を備えるものは本仏(大御本尊)しかない。
末法に完全な主・師・親などありえないことを大前提にすることこそ、人生観を間違えない基礎だ。

書展の前後にメモの字を他人に褒められた。
わたしも「ふつうに書いただけ」と言った。
でもそれは何十年も変わらない本音そのものの台詞にすぎなかった。
達観できる人たちはみな自己を高く評価しているが、師匠の慈愛がそうさせるのだと魂と肌で知っている。
半端な専門家たちは師匠にそれほど認めてもらえなかった証拠で、筋のある弟子をきちんと認めることが難しい。
日本ではカネが全てであるかのようなバイオリンの世界でもまったく同じである。

みんなとふつうがまったく違うことに、わたしは誇りを持っている。