FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

自分が一番大切だからこそ 日本国1億2500万人の彷徨 現世俗物根性にまみれる幸せは悲惨

f:id:FujiYama:20210530001411j:plain自分を大切にして自分の人生を完全に生きることは、一定の考え方の人たちから攻撃をされる生き方である。人間は親も成育環境も選べないように、仕事や配偶者もある程度周囲が決め、その環境に従って生きる生き物であるから、そのような考え方は贅沢だとして排除する考え方がある。これは非常に理にかなっていて、与えられた環境の中で、自分を最大限活用するために全力を傾注するから、本人のためになり社会のためになり、みなさんが理解しやすい考え方である。

どちらかと言えば環境優位の考え方であり、アジアは傾向としてそういう感覚なような気がする。

しかしこれはよい周囲の人に恵まれた場合だけ、たまたまうまくいく話であって、とんでもない親や先生、上司や配偶者との忌まわしい出会いというものが世の中ごまんと転がっている。しかし世の中の常識的考え方として環境に従うように教えられた人たちは、その呪縛から逃れる術を知らず、不幸に陥っていくのである。

戦後の日本人はそのあたりに気が付き始め、キリスト教の学校を卒業した日本人、四年制大学を卒業した日本人、留学した日本人だけではなく、個人の自由や意志の尊重を大切にするようになりつつある流れが見えるのは、非常に歓迎するべきである。

それが最近また、人間は自分の人生など生きられないという新自由主義下の労働者に対する洗脳として喧伝されはじめたことは由々しき事態である。もともと旧来のキリスト教社会にあっても、運命論という価値観によって、人間は環境に従えという古い考え方があったが、近代市民思想に移行してからは、本人の歩みたい人生を歩むことができるように社会システム、教育システムなどが整備されてきた。西洋でもその流れがあって、個人の幸福を実現する下地として近代憲法が制定され愛されてきた経緯が認められる。

ここまで読めばわかるとおり、私は個人が自由であるべきだと考え、万人が幸福追求ができるような社会のあり方を志向している。

有名な環境決定論という考え方があるが、人間は自己選択がまったくできない生き物ではない。問題は、奴隷か自殺かというような二択しかない場合であり、これは思考停止状態に陥って政治的にネオナチや国家主義に走るように仕組まれた新自由主義経済原理の弊害であり、これは政治経済の面から改善され解決する方向になってほしいと願い、別の記事のとおりれいわ新選組を支援することにしている。

もうひとつの問題があり、これが今日の本題である。

自分の自由、幸福の追求には賛成だが、では自分とは一体何か、幸福とは一体何かというところが、完全に個人に任されたままで、自由や幸福は実現できない。

義務教育や社会人経験やテレビやネットで情報がある程度豊富な気がするが、それはそんな気がする、わかってるつもり、自分はそこまでバカではないという生ぬるい感覚を基底にした自分であり自由であり幸福なのである。

これは結局お金さえあれば幸福が実現できるというサルとバナナの幸福観から脱け出られないはかない自由と幸福である。またある者は高い道徳観や倫理観をもって自分は自己制御ができる自由を持ち、なにも不自由は感じておらず、一族そろって幸福であると主張するであろう。しかしそんな人たちが、不慮に事故を起こして人を殺してしまったり、まったく無関係な他人に急に轢き殺されたり、腕の良いはずの外科医も手術に失敗して名声を失い、損害賠償請求を命じられたりする。それらはお金ではとうてい解決できず、努力も水の泡になり、それが幸福な晩年であればもはや取り返しもつかない。

そこそこ教養があって人間をわかったつもりになっているエリートですら、幸福ははかなく一瞬で失うものである。エリートや富裕層の自殺や事件など、一般大衆からすれば何をとち狂ってそんな事態を引き起こすのか理解できないほど、人間は愚かな生き物であり、その彼らは一様に自分の自由と幸福の追求のほとんどを実現していた人たちである。

このあさはかな自己実現や幸福追求をものの見事に追随してやろうとしたのが、創価学会である。彼らは世間的名声や富や政治力をもって、その宗教の教義や池田という指導者が正義であり、自分たちがこの世で一番だと主張したのである。

当然エリートたちですら不幸な方が続出しているのだから、彼ら新興宗教の怪しげな人たちが官庁や一流企業に入社しても、たいした幸福は実現できない。

しかし彼らは貧困層を見下し、規模の小さな政党を見下し、恩義の深い日蓮正宗までさげすんで、自分たちは幸福であると信じ込むように洗脳されてしまった。

自分というものをはっきり知り、善悪の区別をはっきり理解し、環境と自分の関係性を自ら調整できる程度の人間的成長をするためには、正しい本尊が必要である。正しい本尊ならば、幸福追求の内容を取捨選択して間違いをやらないようになっていかなければならない。誰かがこれをやれとかやるなとか言って、それに従うだけの人間ならば、そのような人に人間的成長はありえない。自分で意識して考えて、善悪がわかるだけでは駄目で、自然と悪いことを悪いと発言し、悪いことを遠ざけるような実際上の行いが重要である。

さらに言えば、自分が一番大切であるのが悪いことなのではなく、自分や幸福の基準が甘いことがその人の人生を損ねることが悪いのである。後悔先に立たずで、正しい本尊を選んで、自分を深く知って、自分を成長させてくれる本尊と師匠を求めることが大切なのである。

自己の成長というのは、一流企業に入社したり、出世したり、新興宗教の会員を増やしたり、経済的に余裕を持つことではない。家族とうまくいっているから成長したのだというのも眉唾である。そもそも仏教なら死ぬときはなにも持っていけないというのが常識であり、創価学会の基準では一人で死んでいくということを考えていないのだなとよくわかる。役職や会社名や三色旗や家族なんてまったく役に立たないことをまず自覚する必要があろう。学会員には浅ましく財産を使い切って死のうという輩も多い。

創価学会の信心というのは、本尊が大切なのではなく、自分が唱えるお題目に力があるのであって、自分の心に仏界があるのだから、本尊はどうでもよい扱いにしている。努力が実ることだけを信じているとしたら頭が弱いとしか言いようがない。実るかどうかと別に努力ができることがあたりまえに重要なのだが、なんでも収益になるかどうかだけで判断する可哀そうなどす黒い商魂しか理解できない人種というのも存在する。

信心の形式的に本末転倒である。本尊があってお題目を唱えるという形式がよくわからない人たちは、本尊がなくてもどこで唱えても功徳があるし、自分が仏だから問題ないのだという。そんな考え方から戒壇の本尊を否定することができるのであるが、あやふやな自分の仏界を信じたり、ニセ本尊を信じたり、信徒除名になった池田を師匠だと叫んだり、もはや狂人の域である。

日蓮正宗形式主義であると批判するが、正しい形式を否定して、信心は成り立たない。彼らは順番として1日蓮戒壇3歴代猊下という流れを否定したので、1池田2ニセ本尊3会長4日蓮という順番になった。池田大作日蓮の生まれ変わりだという間違いを言う人たちもいるが、御書の解釈を池田流、学会執行部流に勝手に読み替えているところが、その順番違いの証明になる。

また、創価学会日蓮正宗に法を弘める気がないから問題であると非難し、創価学会は世界に広まったから正しいのだと主張するが、これも日蓮の教えをまったく理解していないことの証明である。世界に何を弘めたかという点と弘めたら正義かという問題がある。まずニセ本尊を弘め池田の珍解釈を弘めた罪は大きい。拝んだって病気になるようなものを頒布したのである。日蓮大聖人はどういう意味で書きのこしたのかという正しい意味をよじ曲げて御書を海外にまで弘めた罪は大きい。もうひとつ弘めればなんでも正義かという問題だが、日蓮大聖人はいくら万国に弘めても日興門流について戒壇本尊を正式な本尊として拝しなさいとはっきり言い遺しているので、弘めただけでは日蓮の弟子ではないということである。

話が少し戻るが、御書には繰り返し「南無妙法蓮華経と唱うる者」という表記が出てくる。唱えれば成仏し、唱えれば仏になるという教えは、しかしながら前提条件を持つ。

戒壇の本尊と日興上人以来歴々の法主を師匠にするという前提条件。

この前提といい形式といい、これを外したら仏界は魔界に変貌する。

自分の心に聞いてみても、なんとなくよいような感じでしかない仏界もどきである。

仏界が確実で一番でなければ成仏は不可能である。

洗脳され、親族に取り巻かれていると、そのあやふやな仏界もどきですべて満足し、ほけーとした能天気な集団ができあがったまま社会に害毒を及ぼす。

日蓮正宗の本尊は唱題してみると、どこまでもクリアな感覚であり、心臓にビンビン響いてくる深い本尊である。その極致が戒壇の大御本尊である。

しかし今の学会員たちは、みなその経験がないから、ニセ本尊のスカスカの響かない感覚を仏性だと思い込んでいる。これは事実彼らの経験がないから、彼らにとってはそのスカスカがすべてになっているのである。そして自分の心臓にわずかに響く声の響きだけを基準し、つまり畜生界を基準とした仏界もどきしか知らない。生命力が弱るから、当然に病気がちになるし、日蓮正宗信徒を破折することもできず、道で会っても避けるようにすれ違うしかないのである。

響きの違いは、成仏するかしないかの違いである。自分の三世を見通せるか、ちょっと先の将来までしか見通せないかの違いにもなる。自分と環境調整もできないことになる。頑張っただけ弱る本尊では修行などできない。五座三座の勤行が面倒臭いという世代になったのは本尊に力がないことの証明である。学会員の生命力が弱り続けた結果、五座三座の勤行ができなくなった。

それと同じくらい重大なことがあり、僧侶を敬えないという特徴が池田を師匠にしたことと一致している。そこから戒壇の本尊が二番になったことが決め手である。池田が師匠で僧侶は悪者になると、戒壇本尊は拝めない。その流れでニセ本尊だけになり、力が出なくなったのである。むかしは日蓮正宗の僧侶を一応でも敬っていたから、ニセ本尊ですら響きが残っていた。それこそが血脈の次第なのである。

自分の幸せは自分を知ることと何が幸福なのを知ることである。人間の成長とは何か深く知ることが真実重要になるが、みなさんそこをなんとなく曖昧にしてきちんと考えが及ばないまま年齢を重ねていく。

本尊と師匠をまず定めて、実際にその本尊が最高峰のものなのか、自分の師匠が絶対に正しいとまで言えるのかどうか、きちんと突き詰めて考えていくと、真実が見えてくる。本尊と師匠については、自分のかけがえのない一生の出発点であり帰着点であり、永遠性を帯びる重要な問題だから、絶対に譲歩すべきではない。

過去は絶対に戻らない。

死んでしまえばまた人間に生まれ変わることができるかどうか、日蓮正宗の本尊と師匠からしか理解できない。

一億二千万余りの日本人は、いや自分は幸せだから、いやそれどころではないから、と言って、原点を持たないまま、浅い経験識と不完全で時に誤った教育を信じて、今日も生きていくのである。