FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

ひとつの不真面目さの集大成 創価学会員さんとの対話:創価学会員さんからの回答というブログを読んで

 f:id:FujiYama:20210921220411j:plain少し休憩しようと横になってブログを読んでいたら、新興宗教創価学会の会員のとんでもない言説に行き当たって、その悪質さについて記事にすることにした。まさに煮ても焼いても食えない連中。

 ひとつは、彼らは新興宗教でありながら、日蓮大聖人様や日寛上人様の御書やお書き物を引用するため、非常に素人から見て古典的宗教だと勘違いされやすいところである。文章を正しく読めば、おのずと正しい解釈があり、その解釈に幅がある場合には、さらに別の御書やお書き物を総合して、その正しさを検証し担保するのが信仰者としての誠実な態度である。

 しかし彼らには、その正しさよりも優先する正しさがある。

 センセーは絶対神、池田権現神社をまつらなければ、優秀な学会人ではないから、そのためなら、解釈を曲げて当然だと考えている。

 まず歴代法主を全否定することから始まる。

 学会員「二箇相承において日蓮大聖人が法を付属した対象は日興上人ただお一人であるので、それによって「代々の法主への信仰」という結論を導くことはできません」

 日蓮大聖人様は日興上人に法を付属したという場合、全人類一切衆生のために代々伝えていきなさいという令法久住の意義が含まれるので、一人に付属したから、それ以外の人には付属していないという暴論はありえません。ましてや大聖人様が昭和平成時代の池田に付属したという根拠はまったく存在しませんが、法主を信仰しないという表現がすでに日蓮正宗の正しい信仰の意味を理解するつもりがないことを示しています。

 学会員「日興上人、日目上人は御本尊七箇相承の通りには御本尊を書写していません。したがって御本尊七箇之相承は後世の偽作である」

 御本尊七箇相承
 一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。

まさかですが、様々な御本尊の形式の違いを問題にしたり、意の一字を読まずに全否定する。これだけはっきりと歴代の上人が日蓮だと明言しているものは、彼らにはとうてい受け入れられないのです。池田権現神社にいられなくなってしまうから。池田上人様と仰げということ。

創価学会員「百六箇抄の該当箇所は後加文です。当然、用いられません。」

百六箇抄
  釈迦諸仏出世の本懐・真実真実・唯為一大事の秘密なり、然る間・万年救護の為に之を記し留む。就中六人の遺弟を定むる表事は先先に沙汰するが如し云云、但し 直授結要付属は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て惣貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付属せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐ可き者なり。
 又五人並に已下の諸僧等日本乃至一閻浮提の外・万国に之を流布せしむと雖も日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり所以は何ん在世滅後殊なりと雖も付属の儀式之同じ譬えば四大六万の直弟の本眷属有りと雖も上行薩埵を以て結要の大導師と定むるが如し、今以つて是くの如し六人以下数輩の弟子有りと雖も日興を以て結要付属の大将と定むる者なり。

後加文にしなければ、創価学会邪教、亜流であることが白日の下にさらされる。そういうことにしておこう。いちおう百六箇抄の写しの時代も含めて調べてみると、なるほどこれは創価学会のような邪教が発生するからと前もって予言していたのだなと納得できますが、彼らからすれば都合が悪いから証拠隠滅で後加文扱いにするしかない。池田が勝手に本尊を摸刻させたのと同じで池田が勝手に日興門流で日蓮の生まれ変わりだと主張したいから、そこまでして証拠は闇に葬る。当然、彼らには日蓮は用いられません。池田を用いなければ優秀な学会人ではない。日蓮大聖人様をだしに使う宗教なんていくらでもあるのにそこには気が付かない。

創価学会員「日興跡条条事について
日蓮大聖人は御書の中で一度も弘安2年10月12日の御本尊のことを仰せになっていません。日蓮大聖人は、本門の本尊とは「寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり」三大秘法抄1022 と仰せになっています。弘安2年10月12日の御本尊のことは仰せになっていません。
日興上人は「弘安二年の大御本尊は日目に之を相伝す、本門寺に懸け奉るべし」と仰せになっていますが、これも弘安2年10月12日の御本尊ただ一幅を本門の本尊と定めたのではないことは明白と思います。南無妙法蓮華経の御本尊は全て本門の本尊であると考えてよいと思います。」

創価学会員は、言語を理解する能力がないのだということがよくわかります。たとえば

「あのあれとっといて」「いつの何を保存しておいて」「弘安二年の大御本尊を歴代上人で守れ」という3段階あるとしたら、最後の具体的な表記を文字で書かないと理解できないという面があります。わざわざ大御本尊と表記して日目にと明記してもなお、歴代上人を否定し、弘安二年の大御本尊を中心としなさいと別にもう一文追加しなければ理解できないという理解能力。しかもその文が別の御書などにあったら偽作だと言い出す人たち。

本尊がすべて本門の御本尊で同じだという主張は身延日蓮宗そのもの。身延提灯のかかる靖国と池田権現は仲良しこよし。

創価学会員「ポリ銀さんは前のメールで「戒壇の大御本尊を信受しないのであれば実体のない法を根本にすることになる」と批判されましたが、まさにおっしゃる通りで、法とは実体のないものだと思います。法とは本来永遠不滅の存在であるはずですが、弘安2年10月12日の御本尊のような実体として存在しなければならないのだとすると、日蓮大聖人が700年前に誕生するまでは法が存在しないことになってしまうではありませんか。矛盾すると思いますがいかがですか。」

そもそも末法にご出現される御本仏が、なぜ正法像法時代の本尊について責任を問われなければならないのか。そういう不当請求が好きなのが新興宗教です。

同じ理屈だと釈迦以前の人類はどうなるんだとかいうことになってしまい、理論というよりは難癖、ヤジです。

むしろ実体のない、本尊のない宗教は宗教として矛盾しています。法が目に見えないことと実体のないことを混同している。見えない法は現物としての実体と猊下以下の形式によって具現化され、それが宗教の根本たる本尊の意味ですが、猊下を否定して大御本尊を否定したいので、我得たりと慢心を起こして、本尊が不要だと言っている。これは悩乱とも言いますが、確信犯です。悪質です。わがままで好き勝手なことを法だと言っているのと同じです。。

創価学会員「宗門は代々の法主の内証が日蓮大聖人の内証と等しいと主張していますね。つまり代々の法主の内証は久遠元初の自受用身すなわち御本仏であると主張しているわけです。これほどの大増上慢、大謗法をなぜ見抜くことができないのですか。」

内証が等しいということが、どこが大増上慢なのか、その根拠は池田権現より劣るボウズという蔑視とか不信とかからくる見方にあります。

素直に内証の悟りを信じて、猊下の指南を受けるという基本形がないのは、池田大魔神のほうにたぼらかされて、内証の悟りが池田魔王にあるのだと信じ切っているのです。

池田が大聖人であると主張することに抵抗を感じていない典型的新興宗教信者。池田の増上慢、名聞名利という側面、本質が見えないのは、浅はかにも信じ切っているのです。重病ですが、きわものの定めで、指摘されても聞く気がないからご愁傷様。

創価学会員「謗法について 日蓮大聖人はこの様に仰せになっています。
「謗法とは法に背くという事なり」顕謗法抄455
「私ならざる法門を僻案せん人は偏に天魔波旬の其の身に入り替りて人をして自身ともに無間大城に堕つべき」四菩薩造立抄989
法そのものである日蓮大聖人に背き「唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にましますからであります」などという法主の勝手な主張を認めるから日顕宗などと揶揄されるのです。

「血脈を否定するのは、大聖人様直結を言いたいだけではありませんか?」について
法主から法主への血脈が根本であるなどということを日蓮大聖人は仰せになっていません。」

法というものが目に見えないことにして、ないことにしていることに気が付かないのでしょうか?法は大御本尊と猊下以下の唱題、法華経の読誦と弘法に連なる一連の信心活動が根本であるものを否定し、背いているという自覚がまったくないことがわかります。

法門を僻案せん人というのが池田創価学会だということを自覚していないので、大御本尊が不要だとか上人は悟りがないとかいう僻案で1600万信徒が学会という悪道に堕ちてのたうち回り苦しみながらへらへらしたりほけーっとしたりしている不幸に気が付かないのです。血脈がないから宗門に対する揶揄が謗法だと覚知できない。

日蓮大聖人様が何度も上人に受け継ぐものだと仰っているのを後加文とか偽作とか言って否定しているのは、まさに不信謗法そのものです。池田に血脈があるという主張を疑わないところが重症です。名聞名利の大衆とはそういうものです。云々。

創価学会員「「なぜ、日蓮正宗の御本尊を信仰の対象にしているのですか?」について
創価学会員は日蓮正宗の御本尊を信仰の対象になどしていません。日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の御本尊を拝しています。

あくまで日蓮大聖人の御書のみを用いようとする僕をポリ銀さんは馬鹿にしているようですが、御書根本・依法不依人の精神は日蓮大聖人が数多の御書の中で弟子に教えられていることです。ポリ銀さんは法主の言うことは絶対に正しいと考えておられるようですが、一体どこにその保証があるのですか。」

日蓮大聖人の題目の御本尊を拝しているというのは、身延の本尊でもよいし、日時上人の本尊でもよいし、ほんとうは中央に題目が墨で書いてあればよいという程度に考えている。北極で白熊が唱えるのも南極でペンギンが唱えるのも大聖人様の内証の悟りと同じだという考え方から創価学会は成立しているので、鎌倉古文の御書さえ読めれば宗教法人代表は誰でもできるという考え方ですね。法を知らない人、修行の必要な形式を軽視する人は御書だけでも信心だと思えるのです。例えば、ひいふうみいしか知らない子供は、方程式を使う学生に馬鹿にされているような気持になり、数学科の大学教授が絶対に正しいなんて信じられないし、またその判断基準がないからわからないのです。ひいふうみいと言えれば、つまりお題目だけで成仏するから基本的に本尊がいらないという感覚で、りんごかみかんの数を数えることができれば、生きていけるという段階。日本人の多くには大学は贅沢であり、大石寺は権威であり、そういうものは庶民には無関係であるという感覚がありますが、彼らは池田権現さんがそう言うのだから間違いないと信じています。法というものを知らないし、不依人というのに池田に依ることは例外だと思っています。また法主の指南が法を説いているものだということに気が付かないのでしょう。きっと猊下が独善で好きなことを言っていると思っているのか、専門用語を並べても学問のない人は理解できないとか、たとえ学識があっても、池田の指導を客観的に読んだり聞いたりする人界の生命すら失っているということです。法主の言うことが絶対なのではなく、指南の説いている内容の法が絶対なのだということすら理解できず、大御本尊から発する信心の基本形と流れが見えず、依法不依人という言葉が理解できているとは思えません。自分たちが法主を疑う、大御本尊を疑うことが、謗法だという冷静な見方ができるようになればよいが、池田教信者の池田流には血脈も信心もないということです。

信心、特に仏教は総体的なものの見方が必要なので御書だけで判断したり文字面だけ読んで解釈するのは間違いのもとです。馬鹿にしているのではなく、馬鹿をみないように正しい法を教えているのです。

創価学会員「「戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承を信仰の根本とする」という主張は「無二に信ずる故によって此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり」日女御前御返事1244 「唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可し」富士一跡門徒存知の事1606 との御文に違背していますね。このことをどう思われますか。」

この学会員だけではないと思うが、いったいどの御本尊の宝塔の中へ入るつもりなのか、爆笑してしまいました。さようなら学会員さん。大御本尊の宝塔以外にはないでしょうと教えてあげてほしいところです。妙法蓮華経の五字という場合にも、単語として読むのではなく、題目計りという場合にも、明確な本尊と特定の本尊を想定していることはあまりにも前提すぎて、ふつうはそこに疑いも反論の余地もあろうはずがないわけですから、創価学会員は残念ながら成仏できないことも自明であります。題目をつぶやいて地獄へ行くことが信心だと信じている恐ろしさに気が付くのは死にかかったり発病したりしたときくらいでしょうから、手遅れになりがちです。

法道院のある壮年の方が学会は池田の人気でもっているからそのうち衰退するという見方をしていましたが、大方そういう見方で正しいと思います。

YouTubeでも樋田氏がたくさん動画で破折していますが、池田は大論師とか法然とか極楽寺良寛みたいな大悪人だというようなことも言っており、これも正しいと思います。

末法のわれわれはみな大なり小なり悩乱していますから、だまされやすい、おだてられやすい、はまりやすい、まちがえやすい、という性質があります。

いかに多くの人をはめるかという自己顕示欲を満たすために耳触りの良いことを言う人気取りのうまい悪党はいつの時代にものさばるものですが、だまされた人たちはみなさん悲惨そのものです。きわもの宗教の運命、公明票は600万余りまで激減しました。都議選でもマイナス10万前後。

魔縁にとろかされ、魔にたぼらかされ、人間ほど愚かに不信謗法に徹する生き物もいないでしょう。愚痴の心をとり、善心を破り、悪口罵詈、雑言でそれほど多くの人をだますことに成功したつもり、あるいは嘘をつきとおすなんて、ふつうの感覚では不幸でしょうに、それすら感じなくなっているのです。

法を説き続けて、悪法は悪法であることを破折していくしかないなと決意を新たにしました。

 基本を知らず基本に難癖をつけ基本を揶揄して、いったいどうやって幸せになれるというのか?人類史や釈迦や日蓮を否定して自分たち創価が世界を支配するという野望を晒しても、あわれな判断力のない地獄餓鬼畜生の衆生を焚き付けて修羅のおごりを引き出して世界広宣流布と言うのがオチ。世界のガン、世界の毒薬、世界平和の敵、人類史の汚点、大聖人様の怨敵は消滅させなければなりません。不幸な人を手段や道具にして利用しつくす新興宗教のえげつなさにはどうしても嫌悪感とか違和感がありますが、その心根を観ると完全に腐っていることが明白です。

心根を綺麗に鍛え上げるのが世界中の本来の伝統宗教の特性であり、人として生き残るための最善の知恵なのです。信心即生活という言葉も彼らには信心即現金という理解解釈になり、そもそもお金があれば信心しなくてよいという感覚ですから、当然法主と法と修行を否定し、三宝を否定できるのです。

きっと日蓮大聖人より池田大商人様が貴く有難いのでしょう。

世界人類史から希望や善意を消し去りたい異常者たち。人の真心を食い散らかすおぞましさには敢然と立ち向かわねば祖先と歴史に顔向けできません。反面教師程度の価値はありますが、害毒をいかに解毒するか、免疫力向上のため、生涯日蓮正宗の修行は怠れません。