FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

なぜ障害者がうとましいのか 日蓮正宗の場合

f:id:FujiYama:20220122143541j:plain基本的に、生物が障害をもつことは不便だからあまり歓迎しなくて身内なら悲観したり絶望したり、時には排除するために苦心惨憺することもある。

日顕上人は「すべては唱題から」の中で、悩ましいことであると表現しておられるが、実際に多少なりの悩みとなることはあり、しかしながら誰でも大なり小なり他人の出来不出来からくる悩みはあるので、特に障害者に対して厄介とか迷惑とかいう表現はない。

時代の変化そのものがいくぶん反映されていて、本山でも車いすの方が列を連ねて大御本尊様に合掌し、かつて精神疾患の錯乱した患者さんも奉安殿入り口で取り乱したりしながらやがて数年後には落ち着いて合掌できるようになったそうだ。

日蓮大聖人様は被差別のライ病になってもうずらんほつにはなってはならないと戒めたり、各種障害者を救済すると明記しておられる。

釈迦はスリハンドクに悩まずにきちんと彼に信心の喜びを保たせた。

まず家庭と末寺と本山でその違いが歴然としている。

家庭で障害者を養育し、親族が養育育成し、そうでない親族がいる。

信心を正しくすれば、大学や専門学校などにやり、特性によっては留学させて幸福追求をさせるから、恵まれた障害者としてなんとか生きていくことができる。珍しくもない。

親族が障害者を保護しない場合、障害が後天的に発生して保護できない場合などは、他人が保護養育することになるが、幸運に恵まれなければ福祉制度に頼ることになる。この場合、本人の希望ではなくて生存権によって生存しているという見方が発生することが実に悩ましい話である。

生存はだれしも希望するのだが、生存権がなければ生存できない。

末寺という血縁や親族ではない障害者もいる集団の場合に、生存権を認めない講員さんがいて、その根拠は障害者福祉や生活保護制度廃止という政治的主張だったり信心すれば自立できるはずだからという考え方だったりする。

いずれにせよ死んでしまえという主張を信心に置き換えているだけである。

日蓮正宗であってもそのように日蓮や釈迦の教えとは異なる虐待虐殺の思想が多くある。

その第一歩は、寺院参詣停止、登山停止という厳罰的処分であり、その前段として住職寺族を含む法華講員からの圧力や乱暴な指導というものがある。

さすがに目の前での暴行淫行は見たことも聞いたこともないが、それ以外の障害者虐待にあたることを平然とやっているのは、しばしば見かける。気の毒なので、私は障害者の方に唱題をすすめる。

障害者は知的精神を含めて唱題、発音できない人は念ずるが、その唱和によって社会参加の第一歩を刻む。

ちょうど少年が両親祖父母と唱和したり、はじめて寺院で唱和したりするときに感動をおぼえるのと同じであり、唱和の意義と異体同心の修行は重複するため、きわめて重要だ。

障害がある人がうとましいのは、まずほかの人と同じようにできないからである。

唱題するのに、そわそわしたり、席を頻繁に移動したり、席につくまでにスロープだのなんだの設備と介助が必要だったり、そもそも寺院に到着しない人がいたりする。

一大発見とも思えるような信心の違いに気が付いたので記事を書き始めた。

本山では一糸乱れず唱和するし、それ以外はありえない。

家庭は覗かないので知らないが、末寺ではパターンがある。

まずマイク導師で多少ずれている人がいてもそのまま唱題唱和するパターン。しかしこのずれている人は、まず滅多に障害者ではない。健常者の場合がほとんどである。時折指導されても自分がずれていることを問題だと意識できない人たちがいる。

そしてマイクのない導師で多少ずれていてもみんなで修正しながら唱和する場合。これは無自覚な人がいない場合。

一番悪いパターンはマイクがなく、かつ誰も導師に唱和しない。バラバラ。

時には寺族がしゃしゃり出てきて唱和している導師一同に圧力をかけて速度を変えさせることすらある。ひどい人は、導師が住職だろうが講頭だろうが、常に自分が一番である。

導師の違いによって、合わせやすいとか合わせづらいというのは致し方ないのだが、意図的に、故意に合わせたくない人がいるから合わせない、私は私という唱題だか自己主張だかわからない人が、2割以上の一定割合で存在しているのである。

他人は一切知らない、誰それが自分とあわないとか気に入らないとかいう感情が先にあって割ってはいる唱題をするとそういうことになる。

その気に入らない理由が、障害者の障害にあることが明確な場合において、スリハンドクを馬鹿にして追い払った修行尼たちと同じ行為であることは、法華経を口にしながらまったく別の教えを優先し、自分の感情を優先していることを示している。

そういう講員の功徳の基準は創価学会伝統仏教と同じおカネである。

法華経の信心は大御本尊様に向かい奉って猊下と唱和した時に一切衆生が即身成仏するという教えであるから、真心で本尊に向かう他人の唱和を乱すことはかなりの重罪となる。

時間があるから唱題している人は、障害者を追い払っても平然としているし、寸暇を惜しんで追い払うために唱題御祈念している人は、障害者が自殺でもすれば支部やこの世から追い払って大喜びするという、仏教の根本である法華経の文底の題目を否定する大謗法を平気でやる。

そういう人たちとはまったく別に境智冥合する控えめな障害者や他人の心がわかる慈悲の信徒は、信心から導師一同と唱和するのである。

唱題は命そのものであり、いっぺんいっぺんを大切に他の個々の存在を同時に認める心である。

講員全員がぴったり一致して境智冥合する異体同心の唱和を妨げることは、その場の講員の成仏を意図的に妨げることになる。

障害者に唱和させるつもりがない講員は、障害者に自立させるつもりもなく、障害者に教育費を認めることもない。

厄介の迷惑と中傷し続けて深い傷を負わせるだけである。

障害者という一個の生命を尊重できないのは、ひたすら金策に追われているような危ない家計であるか、貧しい信心であることを示している。

かつて創価学会は聖教などで貧乏宗教と揶揄されたと主張していたが、実はその原型が多くの日蓮正宗の講に認められる一定の虐待の常態化と一致している。

かつて33年から40年くらい前にたびたびバイオリンはカネがかかるからと言って裕福な親戚たちによる虐待の口火を作ったのは、日蓮正宗創価学会員の信心(言行)であった。少年を奈落の底へ突き落としてカタワにしておいて、盗人猛々しい。

信心を勧めずに虐待のそそのかしである。

なんのための信心なのかがまったく違っていて、きれいごとの創価も正宗も顕正もそこを間違えると同じ集金宗教であり虐待宗教ということになる。

せっかくの大御本尊さまを悪用する人たち、信心と称して虐待する人たち、異体同心と言いながら障害者を排除する人たち、法華講の謗法は身延派への転落そのものであり、永不成仏の大罪である。

指南と御書の間には微塵も狂いがあってはならないし、信徒はその乖離が絶対に起こらないように細心の注意を払うのが当然である。

昨日今日の問題ではない信心の間違いをやり続け、開き直る人たちは、私利私欲の幸福をむさぼるために大御本尊を悪用するのである。

毎月のように登山できるなんて困窮者を育成しないと宣言しているだけである。

貧乏人と障碍者はカネと気を遣うから要らないということで、真心から育成する人が80%から99%でも1パーセントが排除になる言行をして、うるしせんばいにカニの足と相成り申すわけである。

まことに遺憾ながら、みなさんの努力と真心は簡単に水泡に帰するのだが、そもそも人の話を聞くような信心はしていないから、これからも困窮者や障害者たちに辛く当たり続ける不信心のまま、日蓮正宗の評価は低いままではないかと心配している。

障害者に期待すべきは寺院参詣(勤行唱題)と折伏であって、あたりまえだが大金ではない。

障害をお持ちの信徒さんの方々が全員立派な社会人に成長するように信心だけはおすすめしたい。

障害者の教育費・技能訓練費だけはなにがあろうと絶対に削ってはならない。

人間としての心を失って、どんな立派な信心だ立憲民主はよい政策だと言っても、だれも見向きもしない。

犬野かんの類が喜んで信心をしても境涯が上がらない信心なら、それは間違った信心である。

本尊は正しいのだから指導に問題があるということだ。

障害者にきちんと教育を施すことができるだけの当たり前の人間の心をもった人が多い勢力が繁栄して、それを許せない勢力が衰退するのは、あまりにも不思議な大御本尊様の御はからいであろう。