FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

伝統宗教にも気を付けよう (人は宗教には救われない)

私はブログでたびたび新興宗教の問題を取り上げて、なぜ新興宗教でみなさんが不幸になっていくのか、釈迦や日蓮の言葉を用いて論証してきた。

しかし、実は伝統宗教ならなんでも正しいもので、本当に安心できるものかどうか?実はそこに重大な問題がたくさん隠されていることも確かなので、そのあたりをこの記事では取り上げていきたい。

神社神道については、理性がなく、合理的判断ができないところを指摘したことがあるが、少なくとも個人の金銭的利益や国内におけるメンツというのは保たれる人もいる。ではなぜ間違っているのかと言えば、シンプルに国益を無視して富裕層個人の利益を追求しすぎることがあまりにも多いからであり、戦争に負け、貿易戦争に負け、国際競争に負け、経済力の割にスポーツの実力もあまりに弱い。芸術分野も二級止まりが大半であり、まるでまぐれのようにごくわずかな人たちが国際コンクールで優勝するものの、彼らはみんな海外のレベルの高さに日本をあとにする。まれな優勝者で日本だけに住んでいる人がほぼいない。金持ちが高い教育費を払って代々繁栄しようとするあまり、国として高等教育を推奨できず、みんな貧困層止まりにしておくために奨学金貸付制度で元気のいい若者をいびりあげているという事実がある。これでは、日本がバナナ共和国になっても不思議はない。京大の藤井教授の言葉を借りれば日本人はサルである。

つまるところ日本国内で貧乏人や不幸な人たちにマウントすることが至上命題の彼らは日本の国勢が衰退することに対して不感症になっているのである。株さえ高ければ、雨が降ろうが槍が降ろうが、貧乏人が首をくくろうが、まるで知ったことではない。

次に伝統仏教であるが、これは教えの面からの問題がかなり大きい。

経営から言えば、僧侶の位の高い方々は株さえ高ければよいのが神道と同じであるから、どちらかと言えば集金業務に忙しい。位の高い僧侶は、収入のよい寺院経営に配属されるから、あとは営業だけしていればよいというシステムがある。

これらの経済的な面はさておいて、教義、教えがもっとも重要な落とし穴になっている。

以前目指すものの違いとして記事にしたが、理想が違う。それはつまり釈迦の教えの通りなら理想であり、釈迦の教えと違えばディストピアを目指しているということであるが、これはほとんど知られていない。

判断基準はみんなでみんなが幸せになっていくか、選別排除したり差別的取扱いが行われがちかどうか、というのが現代的には理解しやすい。

日蓮宗はとりあげず置いておいて、真言宗、浄土宗、禅宗律宗が代表的なのだが、これらはまず釈迦の教えに背いたことで共通している。真言宗空海密教を日本に伝えたものだから基本的には伝統仏教ではない。日本の歴史の中ではいちおう伝統仏教であるが、たんなる密教である。浄土宗も親鸞らが有名ではあるが、釈迦の教えのほんの一部分を切り取った教えで不完全である。親鸞らは明らかに凡人男性だけが極楽浄土に行けるものと言っているし、そもそも浄土宗は阿弥陀極楽一辺倒で釈迦の教え全体を理解しているとはとうてい言えない。禅宗律宗も大差ないが、釈迦の教えの部分を勝手に解釈してよじ曲げて教義をあとから作ったものであり、どちらかと言えばこれらの仏教もどきは政治目的のために使われた教えである。開祖の名声のための宗派であることは間違いない。密教はその字のごとく内密に闇に葬るのが非常に得意であるし、浄土宗は浄土のためには面倒臭い女や障害者や学者なんていらないという考えで政治を私利私欲のために使いやすくし、禅宗キリスト教でも使われるほど冷静に心を鎮めて間違った政治に隷属せよと教え、律宗は条例細則だけで国民をがんじがらめにして統制するためのものとして重宝されてきたのである。

現代の市民社会の時代にあって、もはや時代錯誤の誹りを免れない性質の伝統仏教であることが実際に多々ある。そこが、つまり経営的な寺院というものをさらに金儲けに没頭させることになる。金がなければ檀信徒はつとまりませんよということである。たとえば、女性差別が著しいが可哀そうに思った親は、女子を高等教育につける必要があり、習い事をさせる必要が増すということである。もし差別がなければ、別に高卒や専門学校卒でも幸せに生きていけるはずであるが、教義として女性差別があるものだから、やたらと教育費や嫁入り道具が高価なものが必要になるわけである。しかも女性の檀信徒は女性というだけで肩身が狭いから、金銭のご供養やお布施などを必要以上にしなければならないという強迫観念にとらわれる。いちいち成仏したかどうかなんて関係ないから、ただ戒名だ、供養だ、葬儀だと言って取れるだけ取ろうとなる。

これが、一般の伝統仏教の姿であり、二十年くらい前に、葬式仏教に堕落した伝統仏教についての本がバカ売れしたこともある。

しかし面白いのは神道と同じく富裕層にとっては、あまり気にならないらしいことである。葬儀やらないわけにいかないし一応やっとくものだという程度の感覚である。

富裕層の定義はいくつもあるが、純金融資産が1億円以上の世帯は、2019年で132万7000世帯しかないそうで、一億円というのは案外すぐになくなるから本当は富裕層とは言い難いが、位の高い僧侶が狙っているのは彼ら富裕層であり、それ以外の勤労世帯というのはあまり金にならないとしか思っていないので、それほど僧侶をありがたがらなくてもよいのかなと思う。ざっと二百万人くらいがよいお客さんになるが、実際に釈迦の遺したお経に反目していて、とても成仏なんてできない宗派だらけである。

ここまで書くと、なんだ日蓮宗の我田引水じゃないかという声が聞こえてきそうだが、私は日蓮宗日蓮正宗の僧侶でないため、一円の得にもならない話であることをまず断っておきたいし、日蓮正宗に対してすらシビアな見方をしている。

日蓮宗がそもそも釈迦の教えに反していることは、日蓮が直接指摘している。日蓮宗では日蓮の師匠が釈迦であると明言し、日蓮本人は釈迦が妙法蓮華経の中で上行菩薩を師匠にしてきたとの記述があることを指摘してそれが間違いであることを示した。日蓮は久遠の本仏であり、宇宙全体のあらゆるすべての仏菩薩の師匠にあたり、釈子日蓮などの記述で釈迦の下につくのはへりくだった便宜的な表現としてのみである。

そもそも日蓮宗の成り立ちが、日蓮の遺言に反したことであり、日蓮宗はどこから見てもたんなるお題目宗である。日蓮はお題目だけ唱えればよいとは言わなかった。

もうひとつの重大な指標が、最初に取り上げた神社神道を拝んではならないという教えである。これは日蓮の直弟子日興が五人所破抄の中で明記している重大事である。日蓮本人も諌暁八幡抄など神社に対する論破の書物を著して現在も直筆のものが遺っている。しかもご丁寧に日蓮宗寺院の内部には神社を祀っているから日蓮正宗初心者にとっては要注意事項なのだ。

さらに日蓮宗は本尊をきちんと区別分類できない。新興宗教創価学会の者が思い込んでいるように、日蓮が書いた本尊ならみんな同じだと言う見方考え方なのであるが、日蓮本人も日興も代々の日蓮正宗法主も、明確に中心となる根本の本尊があることを実物と文献として遺してある。この違いは残念ながら実際に拝まないと単なる考古学、古典文献による違いでしか判別できない。(こじつければ大御本尊は今週のお題の新生活が捗る逸品である。ただし人生の新生活なので4月でなくてもよいが。)

これらは教えの違いと政治的な役割の違いであって、逆に言えば、富裕層や香典代に困らない収入があれば、とりたてて問題がわかりにくいという面もある。

しかし親族や家族や地域の全員が幸福追求をするための前提としての教えの違いはほんとうは深刻で重大な問題であると思う。いまどき女性差別とか児童虐待とか障害者差別とかありえない。

なんだ日蓮正宗の独り勝ちか?あまり面白くないなという方がおられるだろう。

日蓮正宗のあげあしをとるつもりもないが、僧俗ともに教えが形骸化してきていることが日蓮に対する重大な師敵対ではなかろうかと私は考えている。法主はもっとも収入が安定して高額な代表格であるから、たしかにキレイごととして檀信徒全員を尊重し日蓮の教え通りのことが言えるのだが、末寺になると少し実際上話が変わってくる。日蓮の教えが棄損されているのではないかという事例が多々ある。経営上、銀行の信用創造上、なによりも教義上、だれでも末寺から日蓮正宗に入信することができるのであるが、五体満足で収入が安定している世帯しか檀信徒として生活することが難しいのである。ほかの伝統仏教と同じであるが、これは日蓮の教えの面からは大変な問題である。日蓮は知恵遅れを含むであろう愚者、愚人、女性、精神障害を含む根欠、前科者を含むであろう悪人、認められず不遇の貧乏である学者芸術家などをすべて救い、成仏させるという画期的な教えを釈尊の教えから解き明かした真の聖人である。馬鹿につける薬の発見者であり、女子供やかたわに勇気と希望を与え、癖の悪い聖職者を敬えない悪党たちに慈悲をかけた本物の仏である。

昨今、女性の自殺が増えたとか、非正規雇用は女性の率が圧倒的に高いとか、児童虐待認知件数がうなぎのぼりであるとか、非正規ですら雇用数が激減しているとか、変死者数が急増しているとか、つまり貧困層が拡大して御寺参りどころではなくなっている人たちが増えた。彼等が御寺へ行って法話を聴いたり先祖供養をしたり葬儀をしたりすることは極端に難しくなりつつあるが、口先では育成と言いながら、そんな人たちは信心ができないだろうと冷たく切り捨てるのが日蓮正宗僧俗であり、それ以前に教義の中だけでなく政治的にもあわせて切り捨てているのが伝統仏教各派なのである。

新興宗教と大差なく、たんなる票集めと金集めが優先する袈裟衣を来た悪徳商人闇政治家というのが伝統宗教の真実の姿なのである。

今回は長くなり過ぎたので日本の伝統宗教をおおまかに説明できたところで終わりにしたい。