FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

日蓮正宗の良さは限定的で無限大(難信難解)

f:id:FujiYama:20220118174232j:plainもともと開祖日蓮は一切衆生のために立宗したが、最初から反発する人たちを予定して逆縁としていた。
それはそれで生まれ変わったら日蓮正宗をやるようになるから、別に反発しても問題ない。
この考え方は、拡大解釈すれば、お金をかける信徒は信心がある人たちで、細々とやる貧乏系は、指導に反発する逆縁だと分類仕分けする考え方になる。
気に入らない人は、つまはじきにして、なんら問題ない。
そういう感情的な排除が頻繁に起きても、収益にならない人は要らないということである。
適正に勤行、寺院参詣してなけなしの財施(ご供養)を包んでも、貧乏系はと軽んじられ疎ましがられるだけである。
法話などで1人でも多くの参詣や信心のすすめを口にする一方で、やはり収益主義が随所に認められる。
日蓮の教えとは異なることがあっても、医学的な理由や道理や性質を無視黙殺して、気に入らない、言うことを聞かない逆縁の貧乏系は排除すべしという運営が実際上ある。
いくら慈悲だの折伏だのと言っても、勤行や参詣に圧力をかける態度や言動でお祓いをすれば、日蓮の教えを商売に使っているだけの宗教もどきに貶めることになる。
教えどおりの言動と態度がなければ、唱題や法話の素晴らしさが、全信徒に伝わらない。
信心指導と称して虐待をする僧侶も出る。
信心のためならなんでも許されると考え、信心を第一にすれば収益が一番あがるという仕組みになっている。
年収1000万くらいないと、子育てや生活に支障がでそうな信心指導が常態化している。
日顕上人は無理しないように、財産を出させるような新興宗教は信心ではないと明言している。
それが綺麗事に過ぎないことを確認のうえ、さらに日蓮正宗が弘まるように、日々御祈念をしている。
常識的には、大石寺と勤行唱題が無限大の素晴らしい感動を持っていても、住職に気に入られなければそれまでなので、フラフラ言いなりになるタイプやマニアとか古典が好きなオタクでなければという限定的な信徒資格ではなかろうかと思う。
人にすすめるのと同時に、カネがすべてとはすすめられず、信心の素晴らしさと感動を得るためのハードルや労力などの諸条件を考えて入信するのが合理的な場合も多々あるだろう。
信心で乗り越えられるものと、信心しても変わらないものがある。
当たり前なのだが、信心の深さとか努力とかの問題ではない部分については、日蓮正宗で解決しないことが多い。
口がうまいだけの、なんとでも言えるのが法門の持つ危険性であり、池田大作も同じ法門を理解している。
教えや理屈は、ほんとうはまったく横に置いて邁進するのが信心であり、僧侶の指導が間違えていても修正する人が誰もいない。僧侶は信徒が死んでもなにも問題ないと考えている場合もあり、餓死や自殺すら平然と見下す。
なにもかも信心だけで解決するというのは、極めて危険性の高い偏った考え方。
信心を基本に据えるのは、大石寺の唱題を基準に生きることであり、凡眼凡智の教えを一番に隷属を求めることではない。
信徒が増えて大石寺と国が栄えるように、無理な(財施)ご供養という教えがなくなればよいのだが。
無理にカネを出させるところに着目すれば、顕正会創価学会日蓮正宗も大差ない現実がある。
深刻すぎる。